2007.05.06
海外ミステリを読む(98)
「海外ミステリを読む」(98)
[ニューヨーク・ミステリの系譜23]
「警察小説あれこれ2」
ニューヨークを舞台にした翻訳ミステリの中から最も面白い
シリーズを挙げるとすれば、私はトマス・チャステインのカ
ウフマン警視シリーズを推します。意表を衝く設定の中、犯
人と警察がマンハッタンを走り回る警察小説ですが、仕掛け
る方と仕留める方の双方がよく描かれているので、30年と
いう歳月をくぐり抜けて、その面白さは今でも群を抜いてい
ます。
主人公のマックス・カウフマンの階級は次席警視で、分署の
署長という設定です。前回書いたように現実にも分署の署長
は次席警視か、もう一つ上の階級の警視が殆どです。彼が署
長を務める分署はマンハッタン中央警察署の16分署です。
この分署は作者が創り出した架空の署で、西40丁目に設定
しています。MTS署(14分署)が西35丁目、MTN署
(18分署)が西54丁目にあるので、その中間あたりに架
空の16分署を創りだしたのでしょう。
このシリーズの特徴はカウフマンをユダヤ人に設定したこと
です。ニューヨークの警察はアイルランド系が主流派だった
のですが、70年代にはそれが揺るぎ、ユダヤ系とイタリア
系が台頭していることを反映させたのかも知れません。です
から、このシリーズではアイルランド人同士の葛藤とか諍い
は出て来ません。その代わりにユダヤ人の世界が描かれてい
ます。
カウフマンの祖父は衣料品会社を興し、大きく発展させた人
で孫のマックスに遺産の三分の一を残しました。今では父親
が後を継いで社長になり、妹の夫が手伝っています。彼がそ
の会社の経営に興味がなく、警察官になったのですが長男と
して家族の問題にも対処しなければいけないわけです。です
が、彼自身は遺産があるので、給料に頼ることなく贅沢な暮
らしが出来る身分です。その為に分署の署長室を自費で豪華
に変えたり、愛人を持つなどしています。
カウフマンはハーバードの法学部を卒業すると、地方検事局
に就職し、検事補になります。しかし、彼は「自分が犯罪者
達に対する起訴状の作成に手を貸すよりも、むしろ犯罪者た
ちを追跡して逮捕する」方に興味があることに気がつき、警
察官採用試験を受けて採用され、警察学校に入学します。検
事補であろうと、警官になるには採用試験を受けて警察学校
で勉強しなければいけないようです。制服警官から抜擢され
内部調査課で成績を上げてから出世を続けて今は署長という
設定です。
シリーズ第1作「パンドラの匣」はJ・T・スパナーという私
立探偵が保釈金貸付業者の依頼で、保釈中に逃亡した男を追
いかける話から始まります。私立探偵がこの仕事をするスト
ーリーはミステリにはよくありますが、警察小説の発端に持
って来たところに作者の工夫があると言えるでしょう。
スパナーが逃亡犯を逮捕すると、その男は近々ニューヨーク
で400万ドルを盗むという大きな計画があるのを知ってい
るので、それを教えるから罪を軽くして欲しいと言い出しま
す。スパナーが16分署殺人課の一級刑事だった時に、カウ
フマンが課長だったので、二人はお互いによく知っている仲
なのです。スパナーは直感でこの男の話は嘘ではないと感じ
て、カウフマンに話した方がいいと判断し、16分署にこの
男を連れて行きます。
ここまでが、この物語の枕ですが文庫版408ページの72
ページを使っています。枕としては長過ぎる気がします。こ
のあと、スパナーは姿を消しカウフマンを中心とした16分
署の刑事達の奮闘と犯人達の企みが交差しながら進展して行
く展開になります。つまり、出だしは私立探偵小説なのに、
途中から警察小説に変わっているわけです。作者は最初はス
パナーを主役にしてカウフマンを脇役にするつもりで書き出
したのに、途中でカウフマンの方に興味が行ってしまい、結
果として警察小説になったのではないか。そんな気配を感じ
ます。
このことは作者自身が半ば認めています。木村二郎氏が自ら
ミステリ作家にインタビューした記録をまとめた「尋問・自
供」という本に、カウフマンとの対談も入っていますが、そ
の中にこういう場面があります。
「この本の発端は私立探偵小説のようで、途中で警察捜査
小説になりますね」
木村氏がこう訊くと、チャステインは次のように答えている
のです。
「そのつもりはなかったんだがね。1作目を書いていると
カウフマンに興味をもつようになって、彼を主人公にし
て2作目を書くようになった」
私の推論の根拠は、この文章にあります。ここに書いてある
1作目というのが「パンドラの匣」です。最初はカウフマン
よりスパナーに興味があったが、途中でカウフマンの方が好
きになったと言っているのです。つまり、この作品は作者の
最初の構想とは違った作品になったということです。短編は
いきなり書き始めることが出来ますが、長編は構成をきっち
り固めてから書き出します。でも、途中でその構成そのもの
を変えることは珍しくありません。実際に主人公を動かして
いる内に、作者の考えていた方向と別の方向に勝手に歩き出
してしまうことがあるのです。そういう場合は逆らわずに、
主人公に作者が付いて行きます。この作品はそういう作品と
言えるでしょう。
スパナーから話を聞いたカウフマンは「この時点ではまだ実
行に移されていない犯罪、それもニューヨークの365.4
平方マイルの市域内で、何時発生するか分からない犯罪」に
対しての防衛対策を考えることになります。カウフマンはこ
の作戦の暗号名を「パンドラの匣」と名付けます。開けては
いけないと言われていた匣を開けてしまった為に邪悪が解き
放たれたというギリシャ神話に因んで、犯罪を閉じこめてお
こうという意図でしょう。
犯人達が狙ったのはメトロポリタン美術館です。次の五つの
作品を盗もうと計画するのです。
ブリューゲル 「収穫」
レンブラント 「或る男の肖像」
ピカソ 「ガートルード・スタインの肖像」
モネ 「サンタドレスのテラス」
ルノアール 「シャルパンテイエ夫人とその子供たち」
美術館に大金があるわけではなく、展示してある絵を盗んで
売ろうという計画です。犯人達がどのような方法で、この五
つの絵を盗み出し、16分署がいかにしてそれを取り戻すか
が、この作品の中心になります。設定も面白いし、盗む方法
もユニークで楽しめる作品です。作者は絵が好きで、メトロ
ポリタン美術館にもよく行っていたようで、強奪方法も、そ
の時に現場で思いついたと木村氏との対談の中で語っていま
す。ですから、ネタがばれますので木村氏のこの本を先に読
んではいけません。
美術館からの絵の強奪は額から外して、画布だけを丸めて持
ち出すのが普通です。現実の強奪事件のルーブルのモナ・リ
ザも、オスロのムンクも犯人はこの方法で盗んでいます。作
者はこれを参考にして、現実にメトロポリタン美術館が所有
する上記も5点の絵を額から外して、画布だけを丸めて盗ま
せています。しかし、ここにはおかしな点があるのです。た
だ、これが「ダヴィンチ・コード」のような、作者が自分の
作品に仕掛けをしたものなのか、それとも単なる作者のミス
なのかが分からないのです。翻訳が出来て30年も経つので
誰かが指摘している筈だと思い、探したのですが見つからな
いのです。
ここに挙げたリストを見れば、絵の専門家でなくても、絵の
好きな人なら気が付くと思いますが、このリストの絵をすべ
て丸めて、ひとまとめにして美術館から盗むことは出来ない
筈なのです。何故ならば、他の四点は画布つまりキャンバス
に描かれた作品ですが、ブリューゲルの「収穫」は板に描か
れた作品だからです。しかし、作者は五点をすべて丸めて,
ひとまとめにして盗み出させているのです。
訳文には「キャンバスの上に」とはっきり書いてありますの
でご覧下さい。コナントという人物が主犯格の男です。
『選び出した絵画の第1号はピーター・ブリューゲルの「
収穫」だった。コナントの知るかぎりでは、これは世界
的に傑出した名画ということになっており、一部の専門
家たちにいわせると本当の意味の風景画としては西ヨー
ロッパの美術史上最初の作品であるという。キャンバス
の上にこの画家がいかに正確かつ微細にわたってその時
代つまり16世紀の農民たちの一団を描き出したかを、
コナントははっきりと見てとることができた。』
ブリューゲルの「収穫」は「月歴画」と呼ばれる連作の中の
一つで、現存するのは五つ(ほかにはウィーン美術史美術館
に3点、プラハ国立国立美術館に1点)だけなのですが、六
つ目が発見されたとするミステリがあります。マイケル・フ
レインの「墜落のある風景」という作品ですが、これでは板
絵なので盗むのも奪い返すのも重くて大きくて大変だという
描写があちこちに出て来て現実味を帯びています。「収穫」
も現物は堅くて重いオークの木で出来ている上に縦118セ
ンチ、横160センチの大きさです。これを盗むのは大変で
す。逆に言えば、だからこれまで盗まれたことがなかったと
も言えるのです。
問題は作者の意図です。この美術館には他にも画布に描かれ
た傑作がたくさんあるからです。ゴヤの「バルコニのマハた
ち」、エル・グレコの「トレド風景」、ゴッホの「アルルの
女」、さらにピカソの「青の時代」の傑作「盲目の男」もこ
こが持っているのです。どうして、これらの作品を選ばずに
ブリューゲルの板絵を選んだのか。それがこの作品の最大の
謎です。
まず最初に浮かぶのは作者がブリューゲルの「収穫」を詳し
く調べずに画布に描かれた作品だと勘違いしたという考え方
です。次ぎに考えられるのは、作者が思いついた方法、つま
り、五点全部を丸めて盗み出すという方法に固執した為に、
あえて板ではなく、画布に描かれた作品ということに変えて
しまったというものです。どうせフィクションなのだから構
わないではないかという考えがあれば、こうするでしょう。
ネタばれになりますので詳しくは書けませんが、作者が考え
たプロットは板絵では成り立たないので私は後者ではないか
と思うのですが自信はありません。それで、他の解説者はど
んな解釈をしているかなと思って探したわけです。誰かが言
及している筈です。今回は時間切れで発見出来ませんでした
が、見つかったらブログの方で紹介します。
この作品を読む時には、以上のことを頭に入れておいて下さ
い。読み終わったら、私の言っていることの意味が分かる筈
です。
[深読みコーナー]
「パンドラの匣」と同じように私立探偵J・T・スパナーが事
件に遭遇して物語が始まる作品に「死の統計」があります。
これは途中でカウフマンをはじめとする16分署の面々が登
場しますが、主役はあくまでスパナーですので、私立探偵小
説でしょう。この作品で一番笑えるのは以下の箇所です。ス
パナーがカリフォルニアから来た同業者と会話する場面です。
「当時、向こうでフィリップ・マーロウという男に会った
ことがないか?」
「マーロウね、聞き慣れた名前だが、思い出せないな」
「スペードという私立探偵はどうだ?サム・スペードとい
うんだが」
彼は考えていたが、やがて首を横に振った。
「いや、知らない」
「ふたりとも、向こうの私立探偵だ。マーロウはロスアン
ジェルス、スペードはサンフランシスコで働いていた。
おれの聞いた限りでは二人とも信頼できる男で、かなり
の仕事をしたらしい」
作者のお遊びの紹介で、この作品を持ち出したわけではあり
ません。最近では、「アヴェニュー」を「街(がい)」、「
ストリート」を「通り・丁目」とカタカナではなく、漢字に
置き換えるのが定着してきていますが、昭和20年代には「
アヴェニュー」を「通り」、「ストリート」を「街」と訳す
人もいましたし、カタカナ表示のままという時代も長く続き
ました。つまり、この件に関しては統一見解というべきもの
がなかったと言えるでしょう。色々な訳しかたのサンプルと
して、この作品を取り上げてみたいと思います。
この「死の統計」は最初はサンリオから1979年に発売さ
れています。その時に訳者の真崎氏は「あとがき」にこうい
う文章を書いています。
『これまでの翻訳作品の多くは、アヴェニューを「街(が
い)」としているが、訳者は「街(がい)」ということ
ばのもつ日本語のイメージ(例えば「中華街」とか「ダ
イヤモンド街」)を嫌って、そのままカタカナ表記にし
た。それとストリートだが、例えばWest 42nd Streetと
あれば、西42丁目通りとした。これまでは「通り」を
除外するものが多かったが、日本語の「丁目」とはその
もつ意味がまったく異なる(日本語の「丁目」とはひと
つの区域を明確に表している)ので、「通り」を加えて
訳した。』
このあと、この訳は1990年にハヤカワ文庫に入りました
が、真崎氏は「あとがき」に以下の文章を新たに付け加えて
います。
『当時の訳文と今回のものに大きな変化はないが、数字の
ついたアヴェニュー(たとえばフィフス・アヴェニュー)
は早川書房編集部の方針で「街」と表記した。パーク・
アヴェニューなど固有名詞のついたアヴェニューはぼく
のわがままでそのままにしていただいた。』
この文章には編集部と訳者の間で意見の対立があった気配が
窺えます。編集部としては「アヴェニュー」はすべて「街」
と漢字表記に変えて欲しいと要求したのでしょうが、訳者が
抵抗し、数字のついたアヴェニューだけを変えたということ
でしょう。その背後には社会通念として、それでも通るとい
う時代背景があったのだと思います。
参考までに二つの訳文を比較してみたいと思います。
『西259丁目通り913番です』(サンリオ版)
『西259丁目番通り913番地です』(ハヤカワ文庫版)
「ストリート」の訳し方には混乱が残っているようです。現
在は「西259丁目913」と訳すのが一般的です。
『東60丁目通り』(サンリオ版)
『東60番通り』(ハヤカワ文庫版)
現在は「東60丁目」と訳すのが一般的です。
『セカンド・アヴェニューで、そのトヨタ・カローラが』
(サンリオ版)
『2番街で、そのトヨタ・カローラが』
(ハヤカワ文庫版)
話は逸れますが、日本車がアメリカン・ミステリの中に登場
するようになったのはこの時期からでしょう。
最後にもう一つの疑問について私見を書いておきます。読み
終わってから、日本語版の題名の「死の統計」は作品の内容
とどういう関係があるのだろうかと気になったのです。原題
を見たら、「Vital Statistics」でした。辞書を引いたら、
「人口動態統計」という意味の他に、「死亡証明書」という
意味もあるようです。この作品は一人の女性がどうして殺さ
れたかを追求している作品なので、「死の統計」よりは「死
亡証明」の方が作品の内容に一致するような気がします。読
む時には、このことも頭に入れて読んで見て下さい。そして
読後に、どっちの題名が相応しいかを自分なりに決めて下さ
い。それもミステリの読み方の一つでしょう。
(文献)
●カウフマン警視シリーズは全部で4作あり、すべて早川書
房から後藤安彦氏の訳で出ています。
第1作「パンドラの匣」(1974)
ポケミス(1300)版1978年
文庫版1990年
第2作「ダイヤル911」(1976)
ポケミス(1304)版1978年
文庫版1991年
第3作「マンハッタンは闇に震える」(1979)
ポケミス(1363)版1980年
文庫版はありません。
第4作「16分署乗取り」(1981)
ポケミス(1382)版1981年
文庫版はありません。
●「尋問・自供ー25人のミステリ・ライター」
木村二郎・早川書房・1981
●カウフマン警視シリーズの番外編として、下記の作品があ
ります。これは主役は「パンドラの匣」に登場した、私立
探偵のJ・T・スパナーです。
「死の統計」(1977)真崎義博訳
サンリオ社版 1979年
ハヤカワ文庫版1990年
●「墜落のある風景」マイケル・フレイン著・山本やよい訳
創元推理文庫
これはブリューゲルの「月歴画」を題材にした美術ミステ
リです。実際には12枚あったのではないかという説を紹
介したり、「図像学」とは何かを教えてくれたりする知的
エンターテイメントです。
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私のHPは「中原行夫の部屋」です。
http://homepage1.nifty.com/y_nakahara/
(連載状況)
「昭和32年の映画館」は長野県駒ケ根市と中野市を追加。
「新宿・武蔵野館の上映記録」は昭和44年12月分を追加。
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