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海外ミステリを読む


2008.01.16

海外ミステリを読む(105)


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「海外ミステリを読む」(105)

 [ニューヨーク・ミステリの系譜30]

  「昔のニューヨーク(1)」

   ニューヨークを舞台にしたミステリには、古い時代のニュー
   ヨークを舞台にした歴史ミステリと、現代のニューヨークだ
   けを描いた作品の間には、今を描きながら過去のニューヨー
   クも盛り込むという作品があります。その一つがトマス・ア
   ドコックのニール・ホッカデイ・シリーズです。このシリー
   ズはジャンルから言えば「警察ミステリ」に入ると思います
   が、「私立探偵小説風」という形容詞が必要でしょう。とい
   うのは、主人公のニール・ホッカデイは「ニューヨーク市警
   の金の盾章を携えるようになってもう14年になる。所属は
   ニューヨーク街頭犯罪捜査班」という人物で、一人で街を歩
   き回るのが仕事だからです。その上、捜査は単独で他の捜査
   員は彼を助けるためにだけ存在する形になっています。です
   から、正しくは「警察ミステリタッチの私立探偵小説」と呼
   ぶべきかも知れません。

   ホッカデイは刑事ですので、当然殺人事件の捜査をします。
   彼は犯人を求めてニューヨークの街を走りまわるのですが、
   作者は今のニューヨークより昔のニューヨークを語りながら
   歩かせています。シリーズ第1作「神なき街の聖歌」の「訳
   者あとがき」で田口氏はこう書いています。

   『ニューヨーク市警察の内幕を描いたところはほとんどな
    く、一匹狼というより、この主人公のキャラクターから
    すると「はぐれ羊」と言ったほうがいいような刑事の単
    独捜査が、ニューヨークに対するノスタルジックな回想
    をまじえて日記風に事細かに描かれる。』

   主人公が「一匹狼」ではなく、「一匹羊」だと書いている所
   に訳者の苛立ちを感じさせる文です。このあと、こう続けて
   いますが、ここにも訳者の作品に対する不満のようなものを
   感じます。

   『いかにも今日的な事件を題材に選びながら描きたかった
    のはリアルな今日のニューヨークではなく、いわば「思
    い出のニューヨーク」だったのだろう。』

   この作品は1989年作で、ホッカデイを中年男に設定して
   います。

   『あの頃、彼女(ホッカデイの母)らの夫たちはみなヒッ
    トラーや東条と戦っていたのだ。』

   作中にこういう描写があります。日本軍のパール・ハーバー
   攻撃は1941年で、そのあとアメリカが参戦するわけです
   から、ホッカデイは1940年代の生まれということでしょ
   う。従って、この作品に描かれる「思い出のニューヨーク」
   は40年代から50年代のニューヨークでしょう。

   物語はニール・ホッカデイの私情が中心になっています。

   『私は戻ってきた。心機一転して戻ってきた。エレヴェー
    ターもないみすぼらしい建物の、隙間風吹く三部屋の安
    アパートに。』

   というのが、「神なき街の聖歌」の冒頭の一節です。風景描
   写でもなく、職業のことでもなく、「私」自身のことから始
   めているのです。リュー・アーチャーの産みの親、ロス・マ
   クドナルドは風景描写から入ることが多いですが、「縞模様
   の霊柩車」ではこういう書き出しをしています。

   『朝のコーヒーを飲みに行って、戻ってくると、その女が
    事務所のドアの前で待っていた。』

   これは私立探偵小説の常道といえる書き出しです。これと比
   べると「神なき街の聖歌」は「私」以外のことは何も描写し
   ていないことが分かると思います。つまり、ロス・マクドナ
   ルド以上に「私」が前面に押し出されているということです。

   ニール・ホッカデイが「戻って来た」のはヘルズ・キッチン
   です。ここが彼の生まれ故郷です。ここを出てクイーンズ区
   で結婚生活を送っていたのですが、離婚を機に戻って来たの
   です。

   『誰もがヘルズ・キッチンと呼んでいた頃、この界隈はそ
    れほど悪いスラムではなかった。』

   作者はこう書いたあと、さらに続けています。

   『私たちは、酔っぱらいや娼婦や泥棒や銃をふところに大
    型車を乗り回すギャングたちと共有する路上でよく遊ん
    だものだ。』

   これでも、「それほど悪いスラム」ではなかったというわけ
   です。この地域がどういう場所だったかは、前にも取り上げ
   た「ギャング・オブ・ニューヨーク」にはこう書かれていま
   す。

   『ヘルズ・キッチンという名前を最初に使ったのは、グラ
    ンド通りの北側の、イーストサイドのコーリアーズ・フ
    ックの近くにあった酒場のようである。』

   つまり、酒場の名前だったのが、地区全体の呼び名になった
   と言っています。

   「ギャング・オブ・ニューヨーク」はタイトル通りにギャン
   グとそれを取り締まる警察官に関するノンフィクションです。
   この本が多くの作家の種本として珍重されているのは、作者
   のアズベリーがメソジスト派の創設者の子孫で、ヴァン・ダ
   イン編で紹介したメンケンの発行する雑誌にも作品を発表し
   ている作家でもあることがありますが、何よりも書かれたの
   が1928年だからです。1928年と言えば19世紀の息
   吹がまだ残っている時代ですので、生の証言を得られるから
   です。

   『ウェストサイドでは初代ヘルズ・キッチン・ギャングが
    1868年頃現れ、殆ど街いちばんの怖いもの知らずた
    ちを集めるようになった。』

   『ヘルズ・キッチン・ギャングはやがて10番街ギャング
    に吸収された。』

   と、こんな調子でニューヨークを荒らしまわったギャングた
   ちが登場するわけです。そんなギャングたちの中で、ヘルズ
   ・キッチンで最も有名なのが「ゴウファーズ」です。

   『ゴウファーズはヘルズ・キッチンの領主だった。彼等の
    領地は七番街から二番街までの14丁目から42丁目ま
    で。彼らは地下や穴蔵に隠れるのが好きで、地リス(ゴ
    ウファーズ)という名前がついたのはそのためだ。』

   ホッカデイのアパートは西43丁目と10番街の交差点にあ
   るという設定ですので、ヘルズ・キッチンは広くなったか、
   西へ移動したのでしょう。

   メンバーがすべて女の「レデイ・ゴウファーズ」もあり、そ
   のリーダーはバトル・アニーだったと書いたあとに、興味深
   い描写があるので引用します。

   『ギャングたちが労働組合や事業主に雇われるようになる
    と、バトル・アニーは労働争議の双方に女戦士たちを供
    給して、結構な収入を得るようになった。何年ものあい
    だ、ストライキには必ずと言っていいほど女性が「参加」
    し、バトル・アニーとその手下はピケの両側で、対立相
    手やスト破りを夢中で噛んだり、引っ掻いたりしたもの
    だ。』

   このシチュエーションはミステリにはよく登場しますが、新
   しいところではリース・ボウエンがモリー・マーフィー・シ
   リーズで主人公のモリーを女工に偽装させて、こういうスト
   ライキに潜入させています。

   「労働争議」を飯の種にしていたのは、女性ギャングだけで
   はないのは言うまでもないでしょう。警察の締め付けが厳し
   くなったギャングたちは仕方なく、これに目を付けたという
   ことでしょう。

   『1911年の終わり、労働組合はスト破りを殺したり、
    痛めつける仕事や組合に加わろうとしない労働者を脅す
    仕事にギャングたちを雇い始めた。一方の事業主たちも
    組合のピケを破壊したり、会合に殴り込みをかけるため
    にギャングたちを必要とした。』

   「ギャング・オブ・ニューヨーク」の作者ハーバート・アズ
   ベリーは「序文」でこう書いています。

   『本書はほぼ100年近くにわたり危険な厄介者だった、
    ニューヨークのギャングたちの華々しい武勇伝を、その
    背景にある悪徳や貧困、政治的腐敗とともに年代を追っ
    て記述しようという試みである。』

   この試みは成功しているといえるでしょうが、「ギャングと
   呼ばれる人々はすでにこの街にはいない」と言う文は間違っ
   ていると思います。警察の取締の強化で鳴りを潜めているだ
   けな筈です。

   今、ニューヨークの地図を開いても「ヘルズ・キッチン」と
   いう地名はどこにもありません。「神なき街の聖歌」にトマ
   ス・アドコックはこう書いています。

   『名前も今ではクリントン。私のようにいまだにヘルズ・
    キッチンなどと呼んでいるのは社会の落伍者だけだ。』

   古い街で汚い建物が取り壊され、家賃の高いマンションに建
   て直されて行き、そこに昔のことを知らない住民達が住み始
   めるのは今の日本でもよく見かける光景ですが、ニール・ホ
   ッカデイが住んでいるのは、そういう街です。

   彼が住んでいる古いアパートが不動産会社に目を付けられ、
   立ち退き問題が発生し、それに伴う反対運動に彼も巻き込ま
   れ、殺人事件が起こります。

   物語はホッカデイとは旧知の情報屋バデイ・オーが殺される
   ところから始まります。バデイ・オーは「昔はウエステイー
   ズとも緊密なつながりがあった」男です。訳書では「ウエス
   テイーズ」の部分を括弧でくくり、こう説明しています。ヘ
   ルズ・キッチンを縄張りとするアイリッシュ・マフィア。こ
   の時代、ウエステイーズは落ち目になっていて、その為にバ
   デイ・オーも生活に困り、色々な仕事をせざるをえなくなっ
   ているという設定です。その仕事の一つがホッカデイの情報
   屋です。彼はホッカデイにいいネタがあるので買わないかと
   電話をかけて来てバーで会う約束をしたのに、現れなかった
   のです。続いて、アパートの雇われ大家が彼の部屋で死体と
   なって発見されます。

   ヘルズ・キッチンを舞台に不動産業界の金儲け主義が産み出
   す殺人事件を当事者の一人として捜査するホッカデイの前に
   伝道師とホームレスが立ちはだかり、それぞれの世界も描か
   れています。原題の「SEA OF GREEN」は伝道師が聴衆に寄付
   を求める時の台詞です。アメリカのお札は裏を緑色で印刷さ
   れていますので、「グリーン」は俗語で「お金」を意味で使
   われます。ですから、ここでは「緑の大海原」つまり、「た
   くさんのお金」という意味になります。作者はそれを作品全
   体のタイトルに使っているわけです。

   ジェフリー・デイーヴァーの、映画のロケーション・スカウ
   ト、ジョン・ペラム・シリーズに「ヘルズ・キッチン」とい
   う作品があります。この中にこういう文章があります。

   『どうしてここがこんな名前で呼ばれるようになったか知
    ってるかい?人の話じゃ、遠い昔、ここに来た警官が仲
    間に「この街は地獄のようだ」って言ったそうだ。する
    と、その相手がこう言ったんだって、「地獄なんてこと
    ばじゃ生ぬるい。ここは地獄の台所だ」とね。とまあそ
    ういう話だけど、でも、本当は違うんだ。そうとも。ヘ
    ルズ・キッチンって名前はロンドンのヘルズ・キッチン
    から取ったのさ。』

   「ヘルズ・キッチン」という酒場がロンドンにあった名前を
   使ったのなら、二つの本の記述は一致しますが、そうでなけ
   れば二つの説があるとういことになります。警官が言い出し
   たという説も加えると三つの説になりますが。

   「ヘルズ・キッチン」は「神なき街の聖歌」の12年後の作
   品ですので、街の様子も変わっています。

   『かってはここはウエステイーズの縄張りで、その残党が
    いたけれど、数年前に司法省と警察の手で壊滅させられ
    た。その後釜にそっくり座ったのが、ジミー・コーコラ
    ンの一派ー昔からおなじみのアイルランド人のくずども
    よ。』

   トマス・アドコックもそうですでが、ジェフリー・デイーヴ
   ァーも長くヘルズ・キッチンに住んでいたらしく、この街に
   個人的な思い入れがあるのが感じられます。

   『ここは、長年ここで暮らす者たちの本音が渦巻く街だ。
    彼らにとってこの界隈は「ヘルズ・キッチン」であり、
    それ以外の何者でもない。「クリントン」などというの
    は、市の役所やPR担当者、不動産屋の連中がつけた呼
    び名だ。名前が変われば、安アパートやギャング、煤け
    た酒場、クラックのガラス瓶に舗装された舗道、といっ
    た市の泥沼というイメージを払拭でき、企業の本社やヤ
    ッピーのロフトに打ってつけのニュー・フランテイアだ
    という人々に思い込ませることができるとでも思ってい
    るのかどうか。』

 [深読みコーナー] 

   ヘルズ・キッチンの名前には三つの説があると書きましたが、
   実はもう一つあります。それは以前にも紹介した中内氏の「
   アメリカ風物誌」にある文章です。

   『12番街から9番街までのこの界隈は、まったく場末的
    な感覚を持っていて、一人歩きをするのは気味が悪い地
    域である。薄気味悪く感じるのには多分に心理的な原因
    もある。実は、この地区の名称がよくない。今でもヘル
    ズ・キッチンと呼ばれている。グレニッチ・ヴィレッジ
    というな、レッキとした地区名なのであるが、日本語に
    訳せば「地獄の台所」となる。貨物置場、工場、ガレー
    ジ、倉庫、などが多く、その間に長屋が並んでいる。し
    かし、数十年前までは、その名の示す通りの、ならず者
    の総本山として、悪名は天下に鳴り響いていたのである。』

   「アメリカ風物誌」は出版は1968年ですが、1960年
   代前半に「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」に
   「探偵小説風物誌」と題して書いた文章を再構成したもので
   すので、書いたのは60年代前半と言っていいでしょう。

   『ヘルズ・キッチンが、稀に見るタフな地域として世に知
    られるようになったのは南北戦争(1861−1865)
    が終わって間もない頃である。1868年頃にダッチ・
    ハインリックスという男が首領株になって組織した愚連
    隊ヘルズ・キッチン組に、その名称は由来している。』

   「愚連隊」という、今では死語になった言葉が時代を、60
   年代を表現しています。五木寛之氏の「さらば、モスクワ愚
   連隊」は1966年でした。

   この文によると、ギャング団の名前として使われたのが、そ
   の名の由来だということのようです。

   『彼等は主として30丁目にあったハドソン鉄道(現在は
    ニューヨーク中央鉄道の一部)の貨物駅構内を荒らして
    いたが、その他にも、押込、強盗、強奪等、あらゆる犯
    罪の限りを尽くして暴れ廻っていた。その後、同じ仲間
    の10番街組と合流して、暗黒街の王者となった。彼等
    の配下の中から有力なのが独立して、別に新しい愚連隊
    を組織するものが出たが、その中でも、ハドソン・ダス
    ターズとゴーファーズとは、特に勢力を張っていた。ヘ
    ルズ・キッチン組が倒れた後は、ゴーファーズが王座に
    のし上ってヘルズ・キッチン地区の暗黒街を牛耳ること
    になった。』

   これによると、ヘルズ・キッチン組の縄張りは10番街組と
   の合流で西に広がったことが分かります。その為に、ハドソ
   ン河までがヘルズ・キッチンと呼ばれるようになったのでは
   ないでしょうか。

   最後に、ここに挙げたデータだけからですが、ヘルズ・キッ
   チンの名前の由来について私なりの深読みをするなら、まず
   酒場がロンドンで使われていた名前を拝借した説はあり得る
   と思いますが、警官が言い出したという説は有り得ないと思
   います。それから、ギャングが言い出した名前を酒場が店の
   名前に使うこともないだろうという気がします。で、結論と
   しては酒場がロンドンの地名か店名を拝借した「ヘルズ・キ
   ッチン」が地域に浸透して行ったあとに、ギャングが自分達
   の呼び名に使ったのではないでしょうか。

 (文献)

   ●「神なき街の聖歌」(1989)
        トマス・アドコック著・田口俊樹訳
        ハヤカワ文庫版(1994)

   ●「死を告げる絵」(1991)
        トマス・アドコック著・大谷豪見訳
        ハヤカワ文庫(1996)

   ●「復讐をささやく詩」(1994)
        トマス・アドコック著・大谷豪見訳
        ハヤカワ文庫(1997)

   ●「渇きにふるえる街」(1995)
        トマス・アドコック著・大谷豪見訳
        ハヤカワ文庫(1998)

   ●「ヘルズ・キッチン」(2001)
        ジェフリー・デイーヴァー著・渋谷正子訳
        ハヤカワ文庫(2002)

   ●「ギャング・オブ・ニューヨーク」(1927)
        ハーバート・アズベリー著・富永和子訳
        ハヤカワ文庫(2001)

   ●「アメリカ風物誌」(1968)
        中内正利著・早川書房

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  私のHPは「中原行夫の部屋」です。
      http://homepage1.nifty.com/y_nakahara/
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  「新宿・武蔵野館の上映記録」は大正13年4月分を追加。
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