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幕末マガジン


2005.08.03

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  【幕末マガジン】 //  2005/8/3 //  Published by RyoMaX

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マガジンの説明 幕末維新の人物や事件の紹介。龍馬はもちろん、幕末維新史、
明治維新政治外交史、全国の幕末史跡・イベント情報なども。歴史ファン必読。

┣【1】坂本竜馬の人間像(読者の方からのご寄稿)
┣【2】人権の父・江藤新平(1)(2002年5月15日配信済み)

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■坂本竜馬の人間像  (執筆者:株式会社e海援隊代表 勝海舟こと古賀 新)
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日本の歴史上の人物で最も人気があると言っても良い坂本竜馬。
できれば自分が坂本竜馬になってこの閉塞した世の中を洗濯したい
と考える方が幕末マガジンの読書の中に多いのではないでしょうか?
いったい彼はどういう人間だったのでしょう。

竜馬に限らず人間の器を決める要素は次の点ではないでしょうか?

1)人間の素質、生まれ落ちた環境。
2)努力
3)出会い
4)人生哲学

(素質、環境、努力)
竜馬は剣術の素質に優れ、いわば県大会に優勝し東京に出るチャンスを
得ました。性格的にも人を引き付ける魅力がある人間だったようですが
それだけでは所詮普通の田舎道場の師範で終わってしまったことでしょう。

(出会い)
竜馬にとって幸運だったのは勝海舟との出会いですね。彼の知恵と人脈を
最大限に生かせたことが大きかった。若者はしばしば勢いで表舞台に現れ
ますが、良い人生の教師にめぐり合わないとその後の成長が止まってしまう
ようです。

ここまではごく普通の話なのですが、私が強調したいのが
竜馬自身の人生哲学です。というのは日本でかなり有名な評論家が著書の
中で『竜馬は無神論者であるからこのような大きな仕事ができた』と
大真面目に書いているのを読んで愕然としたからです。

著者の発想は『無神論者であれば過去のしがらみにとらわれず大きな
仕事ができる』というものですが、まったく逆ですね。

竜馬が記したと言われる日記の一部を読んでいただきましょう。

「天下のもの、各々其の主ありて一銭を奪はば盗賊と称し、
一人を殺せば人またわれを害す。かくて地震の霹れきするや数万の家を
破壊し、洪水の溢るるや幾億の生霊を殺す。是を天命といふて恐るるは
何事ぞや、人倫もとより少量にして大器なきが故なり。
されば世界を鳴動せんと思う人こそは胸中に此の心なくんばあらず。」

(解釈)
世の中のすべてのものには持ち主がいる。
金を盗めば盗賊と言われ、人を殺すと逆に人に殺される。地震がくると
数万の家が壊れ、洪水がくると多くの命が失われる。
これは天命であって恐れてはいけない。人々の考え方がせこくて器が
小さいのだ。世界を動かそうと言う人は天命と言う考え方がなくては 
いけない。

つまり「人間は神の所有物であり、人間生きるのも死ぬのも神の思し召し
ひとつ。死を恐れてどうするのだ」と自分の日記の中で自分に言い聞かせて
いるのです。

現代人は神という言葉を聞いただけで宗教を意識してアレルギーをおこす人が
多くいますが、もっと広義にとらえ、自分の人生の中に神を活かしていく必要が
あるのではないでしょうか?そう、幕末マガジンをお読みのあなたがこれから
竜馬として生きていくために。

勝海舟@e海援隊
http://612.jp

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■人権の父・江藤新平(1) (毛利敏彦) ※2002年5月15日配信済み
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はじめに

 江藤新平は、日本歴史上にも数少ない大偉人である。

かれの人生はきわめて濃縮されていて、40年の短い生涯のあいだに普通人の何倍何十
倍もの立派な仕事をした。明治維新という大変革期との出会いがそうさせたのだが、
その天才的な能力と旺盛なエネルギーには驚かされる。

江藤の多彩な業績のなかでもとくに重要なのは、日本人のために人権の礎を築いたこ
とだ。なぜならば、人権実現にとって必須な社会的条件が「法の支配」と「法の前の
平等」であるのは言うまでもないが、この大事な二要件を日本の近代国家体制のなか
に初めて体系的に打ち立てた人物こそ、江藤新平だった。いわば荒野を切り拓いて人
権への大道を敷いたわけである。それは余人をもっては代えることのできない歴史的
偉業であり、その恩恵はわれわれ日本人全体に及んでいる。かれは、日本の「人権の
父」である。

以下、江藤の人生の足跡をたどりながら、かれが成し遂げたことを概観しよう。



1.「図海策」と脱藩

 江藤新平は、江戸時代後期の天保5年(1834)に肥前国佐賀郡八戸村(現在は佐賀
市内)に生まれた。江藤家は佐賀藩の手明鑓(下級藩士)身分だった。なお、藩名を
厳密に表記するならば、明治2年(1869)6月の版籍奉還聴許までを「佐嘉」、それ以
後を「佐賀」とすべきだが、ここでは慣用にしたがって佐賀で通すことにする。

 江藤の人生に決定的な影響をもたらしたのは、数え年20歳のとき嘉永6年(1853)
のペリー来航だった。黒船艦隊を率いてやってきたアメリカのペリー提督が日本に開
国を強要した一大事件である。圧力に屈した日本政府(江戸幕府)は二百年に及んだ
いわゆる鎖国を放棄し、それまでの朝鮮、清国、オランダ(および琉球)に加えて他
の海外諸国にも広く門戸を開いたので、日本人は嵐の19世紀国際社会へ否応なしに引
きずり出された。ここに幕末動乱時代の幕が上がった。

 3年後の安政3年(1856)、江藤はまだ一介の書生だったが、注目すべき時事意見書
「図海策」を執筆している。このころは攘夷論つまり外国人排撃論が大流行してい
た。それは時代錯誤で非合理的な感情論だったが、土足で踏み込んできた黒船の無礼
に反発する日本人の心情にぴったり合ったので、世論に大いに受けていた。しかし江
藤は、世の浅薄な風潮に流されず、「図海策」で積極的開国論を主張し、いまや選ぶ
べき道は進んで海外へ進出、通商して西欧先進文明に学び経済、軍事の近代化を図る
ことだと理路整然と論じた。もちろん当時の日本の実状に最も適合した卓見であっ
た。

江藤のほかにも佐久間象山、島津斉彬、橋本左内ら先覚者が同様の意見を述べている
が、そのなかにあって若き江藤の議論を特徴づけたのは、人民生活への目配り
だった。江藤は、攘夷が民生に苦難をもたらすと批判し、逆に通商は生活必需品を
行き渡らせて民生向上に役立つと推奨したが、このような発想は同時代の他の
論者たちと一味違っていた。ここに早くも後年の「人権の父」の片鱗が現われてい
る。

 さて、時勢は進んで文久2年(1862)、尊王攘夷運動が激しく燃え上がり,反比例
して幕府の権威は急降下していたが、このとき江藤の人生に一転機が訪れた。脱藩を
敢行して京都での志士活動に身を投じたのである。同志中野方蔵が江戸で横死したの
に奮起したからだという。脱藩の目的は、前藩主鍋島直正(閑叟)の中央政局進出を
画策するためだった。4ケ月後、江藤は、直正が上京の決意を固めたと知って帰藩し
た。ところが、脱藩という重大な藩規違反を犯したにもかかわらず、かれは、意外に
も死罪を免れて永蟄居処分にとどめられた。この一見不可解な経緯は江藤伝における
「謎」のひとつだが、江藤がもたらした情報の価値を直正が評価したからだったよう
に思われる(本誌の松浦博論文を参照されたい)。江藤は、禄を失い生活面では苦労
したものの、他方で脱藩をめぐる経験と人脈が貴重な政治的資産となった。



2.東京と佐賀

 そうこうするうちにも時勢は急進展し、反幕府の動きに追い詰められた第15代将軍
徳川慶喜は、慶応3年(1867)10月、大政奉還を表明した。まさかの一大事突発に大
方の諸藩は呆然自失、佐賀藩首脳部も同様で、いまや頼れるのは蟄居中の江藤しかい
ないと急遽赦免、昨日までの藩の厄介者は一躍救世主扱いとなった。

 翌慶応4年(途中で明治元年となる)早々、江藤は京都に急行し、誕生したばかり
の明治新政府つくりに参画した。かれは、強大藩佐賀の威力を背景にしているうえ
に、優れた分析力、企画力を発揮し、脱藩勤王の前歴という金看板まで背負っていた
ので、たちまち頭角を現わし、東征大総督府の軍監に就任して江戸城明け渡しや上野
彰義隊戦争に大活躍した。また東京遷都論を唱導した。

 そこで新政府は、占領地江戸を東京と改名して新首都化することにし、江藤は民生
行政を担当した。かれは庶民生活の実態を詳しく調べて物価、家賃、失業問題から障
害者福祉にいたるまで実際的な施策を立案し、実施した。明治維新の政治家のうちで
江藤ほど民衆生活改善に具体的に心を砕いた人物は珍しかったように思われる。

 ところが、有能な江藤は席の暖まる暇もなく、明治2年早々に鍋島直正から佐賀に
呼び帰され、藩政改革を託された。江藤は改革のマスタープランというべき「民政仕
組書」を作成したが、それは領民行政の基本組織に自治議会(寄合)を構想し、庄屋
公選から産業金融振興策、郵便制度、社会福祉にいたるまで藩政全般にわたる施策を
工夫した画期的な計画だった。教育面では、「村中の子供男女子とも是非筆算(読み
書き算盤のこと)の稽古をいたす仕組みを立つべし」とあり、時代に先駆けて男女共
学の実用公教育実施を考えたようだ。また江藤が、「文明を進むるはその要(かな
め)女子の教えを開くにあり」と女子教育の重要性を唱えたのも注目される。

 このまま江藤が藩政指導を続けたならば、佐賀は文明開化の先頭を走って九州政治
経済の中心地になったかも知れないが、江藤は1年もたたないうちに中央政府へ呼び
返され、佐賀藩政から離れなければならなかった。

(2)に続く

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 【参考文献】毛利敏彦著『江藤新平』(中公新書)1987年、増訂版1997年、

 

 筆者紹介 

 毛利敏彦(もうり としひこ) 

略歴:1932年生まれ。九州大学大学院博士課程修了、法学博士(専攻・日本政治史)。 

   大阪市立大学教授・法学部長、広島市立大学教授・国際学部長等歴任。

   現在:大阪市立大学名誉教授、明治維新史学会顧問(元・会長)等。

   主著:『明治維新政治史序説』(未来社)、
       『明治六年政変の研究』(有斐閣)、
       『大久保利通』『明治六年政変』『江藤新平』『台湾出兵』(以上、中公新書)、
       『岩倉具視』(PHP研究所)、
       『明治維新の再発見』『明治維新政治外交史研究』(以上、吉川弘文館)等。

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