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2006.05.31

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  【幕末マガジン】 //  2006/5/31 //  Published by RyoMaX

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マガジンの説明 幕末維新の人物や事件の紹介。龍馬はもちろん、幕末維新史、
明治維新政治外交史、全国の幕末史跡・イベント情報なども。歴史ファン必読。

┣【1】幕末英雄の素顔
┣【2】明治4年岩倉使節団と「米欧回覧実記」(2003/5/1 配信済み)

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【幕末英雄の素顔】
 第4回 「新撰組に斬られた赤穂浪士:大高又二郎」  (執筆者:Mr.萌咲)
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読者のみなさん、こんにちは。
幕末は、後世に名を残す英雄が多く輩出されました。ただし英雄といっても私たち
と同じ人間です。失敗談や面白おかしいエピソードなども多く残されています。
このコーナは、そんな幕末英雄の素顔をちょっと覗いてみたいと思います。

第4回は少し趣向が変わりますが、「新撰組に斬られた赤穂浪士」と題して“大高
又二郎”について書いてみたいと思います。

元治元年(1864)6月5日、尊皇攘夷志士たちが京都三条池田屋に集まり、風の強い
日に京都御所に火を放って、その混乱に乗じて孝明天皇を長州へ連れ出す・・・
という密議を行っている最中に新撰組の襲撃を受け、多くの尊攘志士が討死・
捕縛されたのが、池田屋事件です。この池田屋事件は、幕末の時勢を左右し、
新撰組の名を世に轟かせる大きな事件となりました。

この事件で尊攘志士側に兵庫県出身の人物が2名いました。大高又二郎(44歳)
と大高忠兵衛(42歳)です。年齢は2歳違いですが、忠兵衛は又次郎の養子であり、
いわゆる親子の関係でした。出身は播磨の林田藩(今の兵庫県赤穂市)であり、
あの忠臣蔵の舞台となった地です。又次郎は、大石内蔵助の腹心であった大高
源吾の子孫とも言われています。

又次郎は30歳のころ脱藩し、京都に出て梅田雲浜の元で生活することもあり、尊
皇攘夷思想に傾倒していきました。梅田雲浜が安政の大獄で捕らわれた後も
雲浜奪還を図るなど、京都で尊攘活動を続け、特に長州藩士と強く関りを持ち
ました。高杉晋作や土佐の平井収二郎などとも密接な関係があったようです。

そして赤穂浪士の子孫として同志からも一目を置かれていた又二郎と忠兵衛は、
尊攘志士の中心的人物となり、池田屋での密議にも声がかかり参加していたので
す。

池田屋事件では、又次郎が捕らえられた直後に斬殺。忠兵衛は、池田屋から逃げ
出せたものの後に捕縛され、六角牢に投獄され1カ月後に獄中死しました。
「新撰組に斬られた、赤穂浪士の子孫」・・・・・だんだら羽織の赤穂浪士の血を
受け継いだ志士が、だんだら羽織を真似たユニフォームを着た新撰組に斬られる。
何とも皮肉なめぐり合わせではないでしょうか。

ご意見、ご指摘などありましたら、よろしくお願いいたします。

moesaki1115@yahoo.co.jp

執筆者HP
http://www.sky.sannet.ne.jp/moesaki/

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■明治4年岩倉使節団と「米欧回覧実記」 (執筆者:松ノ落葉)
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(2003/5/1 配信済み)

※正確に引用されるのなら、自由に転載いただくのを歓迎します。

明治4年11月に欧米巡遊の長旅を開始した岩倉大使一行であるが、その主な目的
は聘問と欧米文物の調査研究であったが、ワシントンに到着した岩倉大使は洞察力
の甘さから、条約改正の正式談判を開かんと試みたが、条約改正に伴う委任状が
必要となり、大久保と伊藤はその委任状の交付請求のため、日本に一時帰国する
ことになった。

無事日本に着いた大久保・伊藤の両名はすぐに委任状の交付を求めたが、日本政府
の反応は以外に冷たく、特に外務卿副島種臣はもっとも強固に反対した。反対理由は
国別談判は不利とする点にあったらしいが、これについては異説があり、副島が反対
したのは内容そのものが気に入らなく、よって副島は自己の所見において、別案を
作り、外務大輔(次官)寺島宗則を派遣して談判を監視せしめるという条件付で委任
状を交付したという。(信夫淳平著「外交側面史談」)

他の説として、副島はどうしても委任状はやれぬということで、それでは我々のメン
ツが立たないとして、大久保と伊藤は腹を切るという騒ぎにまで発展したので、政府
は大久保・伊藤の顔を立てるため、条件付で委任状を交付した。その条件とは、
委任状を交付する代わりに、アメリカ国務卿フィッシュに対して、日本政府は都合
あって条約談判を中止したいと日本政府から申し込め、というものであった。ただ、
岩倉・大久保という大立物なので、素直にその意を奉ずるか怪しいところなので、
外務大輔寺島宗則をイギリス駐在大弁務使(2等官、大輔と同格)に任命し、
大久保・伊藤と同行させ、アメリカ経由でイギリスへ派遣させることにした、という
ものである。当然アメリカ経由ということは、大久保・伊藤の行動を監視するためで
あったことは言うまでもない。副島外務卿は念には念を入れたのであろう。副島は
かなり大久保・伊藤の軽率な行動を警戒していたらしく、「委任状を持たせた以上、
その権限において取り返しのつかないことになっては一大事である、まるで子供に
正宗を持たせたようなもの」だから寺島を監視役としてイギリスへ派遣させる途中
同行する、というのである。もちろん、子供とは大久保と伊藤のことである。

2つの説のどちらが正しいかは、その後の大久保・伊藤と岩倉大使の行動を見れば
おおよその見当はつく、大久保・伊藤は明治5年6月17日(陰暦)、ワシントンに
戻ったその日に大久保・伊藤を含む岩倉大使一行はアメリカ政府に対し、正式に
談判中止を申し込んだところを見ると、やはり委任状交付の代わりに条約談判を中止
せよ、という日本政府の条件を呑んで大久保・伊藤はワシントンに戻ったと考えられ
る。

一方、アメリカに滞在していた岩倉や木戸らもただ手をこまねいて大久保らが戻って
くるのを待っていたわけではない。第1回の談判開始日が明治5年2月3日で続いて
※2月5日に第2回、2月8日に第3回、2月10日に第4回(岩倉は不在)、2月
19日に第5回、3月15日に第6回、4月26日に第7回、5月3日に第8回、6
月5日に第9回、6月15日に第10回、6月17日に第11回(正式に談判中止を
申し入れる)ということで、大久保と伊藤が日本に戻った後も精力的に談判を続けて
いたことがわかる。(第5回の談判は主に開港問題に関する件について協議)

※「米欧回覧実記」には2月6日に第2回談判を行ったと記されているが、「岩倉
公実記」には2月5日となっているため、メルマガ本文では2月5日とした。その理
由として、「岩倉公実記」の引用書目に「欧米大使全書」「欧米大使雑録」があり、
これらは非常に信頼のおける重要文書、記録である。一応、念のために條約改正
関係「大日本外交文書」第一巻、で調べてみたところ、やはり2月5日となっていた
ので、第2回談判が行われた日は2月5日と断定して間違いないところであろう。
また、「日本外交文書」第5巻、にも2月5日と記述されているそうである。

ただし、何回も会談を続けていたものの、特に話に進展があったわけでもなく、帰国
中の大久保・伊藤からの電報が届くが、委任状交付に時間がかかる旨の報告であっ
たようである。その後、5月21日には先月のメルマガで触れたドイツ公使ブラント
が使節団と面会して国別談判の不利を説いた。同じ5月21日には大久保と伊藤に
随行して帰国した2等書記官小松済治が先にワシントンに戻り、日本の様子を伝え
た。
そして、これも先月触れたが、6月11日に尾崎三良と河北俊弼がイギリスのロンド
ンからやってきて木戸に面会して、条約改正の不利を進言した。

木戸は、ドイツ公使ブラントが話していた最恵国条款をこのとき初めて聞いたよう
で、随行の書記官に最恵国条款とはいかなるものか聞いてアメリカにて条約改正談
判を始めたことをしきりに後悔していた様子が「尾崎三良自叙略傳」に記されてい
る。

木戸曰く
「予は元より外交のことは甚だ不案内なる故に彼等の云ひなりに任せて置いたのが
予の過ちなり。全体伊藤等が知った風になまいきな事をするから得てこんな失策を
するから困る。しかし未だ其談判に取掛らざる前であるから、少し面目を欠く事ある
もそこは目を潰つて之を中止するも差支なかるべし。さりながら彼の数千里の波濤
を渡り其委任状を取来りたる事なれば、之を中止せしむること頗る難事ならんと。」

上記の発言をそのまま解釈すると木戸は伊藤らに責任を押しつけているような感じ
に見受けられるが、岩倉・木戸・大久保と使節団のトップ3が揃いも揃って外交に
無知なばかりに、アメリカといざ外交交渉に移るや、たちまち狼狽して主要メンバー
(大久保・伊藤)を急遽帰国させ、帰国したら帰国したで、本国政府から当初の
目的に反する行為だ、と非難され、ようやく委任状をもらってアメリカに戻ったとき
には条約改正交渉打ち切りでは、あまりにも情けないといわざるを得ないし、副使
として名を連ねてる以上、木戸もまた同罪と言わねばならないであろう。

また、大久保・伊藤と同行した寺島宗則は明治5年6月21日付で上司の副島種臣
に対して次のような報告をしている。

「米国ニ於ケル條約改正ノ中心ニ関シ内報ノ件」

内伸

條約改定欧羅巴於いて可取行一條当府着の上段々模様承候処米政府にては右
全権を欧州え派出候義異存付見込全く齟齬甚不都合の義に有之依て種々評議に
及候処詰り先般省中於て数議論候と同様にて終に前議に復し今般御渡の国書は
欧州各国にても不差出矢張昨年御渡の御国書遵奉の事に相決し使節一同は永々
当府に延滞の上右の次第にて其後悔相致居候此段内々閣下丈の御含迄申進候
以上

六月二十一日

                                寺島大弁務使

副島外務卿殿

※條約改正関係「大日本外交文書」第一巻、201〜202ページより引用

簡単に訳すと、使節団は条約改正の見込みがないので、話し合った結果、もとの
使命(聘問と欧米文物の調査研究)に立ち返り、新たにもらった委任状は封印し、
従来の国書をもって視察を続けるとのこと、またワシントンに長々と滞在したあげく
右の次第となったことを甚だ後悔している様子。

と、いったところであるが、寺島もまた使節団に対して非常に厳しい見方をしている
ことがわかる。

条約改正交渉の打ち切りの件に関しては、岩倉側か大久保・伊藤側かどちらの側
から話を切り出したのかは不明だが、おそらく双方とももうこれ以上談判を続ける
気力はなかったと思われる。
とにかく、すったもんだの末、使節団は条約改正談判中止を決定し、6月17日に
アメリカ国務卿フィッシュに面会して談判を中止する旨説明した。

フィッシュ曰く
「条約改正談判のことは元々貴公方より御望とありし故、之に応じたるまでなれば、
貴公方にて之を中止なされたいと云ふことならば何の仔細もなきことなり。是は貴方
の御都合次第なり」 ※「尾崎三良自叙略傳」より

フィッシュもまた、大方そんなことだろう(日本政府から方針転換を告げられて)と
思っていたようである。

こうして国務卿フィッシュと別れ、19日には大統領グラントにも別れを告げ、22
日には逃げるようにしてワシントンを去っていった。


■□■6月は「日の丸演説」その他エピソードを中心に紹介します■□■


参考文献

特命全権大使「米欧回覧実記」(一) 久米邦武編 岩波文庫
「岩倉公実記」中巻 財団法人岩倉公旧跡保存会 (再版)
條約改正関係「大日本外交文書」第一巻 外務省
「明治六年政変」 毛利敏彦著 中公新書
「明治文化全集」第十一巻(外交篇) 明治文化研究会
「外交側面史談」 法学博士・信夫淳平著
「尾崎三良自叙略傳」上巻 尾崎三良著
「岩倉使節団」 田中彰著 講談社現代新書


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