2002.01.14
故事成語で見る中国史(14)髀肉の嘆
故事成語で見る中国史・第14回
日頃、何気なく使っていることわざや言い回しの多くは、
中国の歴史に出典を求める事ができます。
耳馴染んだ言葉がどのような時代背景で生まれたのか?
歴史書の原典をひもときながら詳しく解説します。
現代にも生きている言葉から、中国史を浮かび上がらせてみましょう。
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髀肉の嘆(ひにくのたん)
功名を立てたり力量を発揮したりする機会に
めぐまれない無念さをいう。(広辞苑)
用例:「希望の職場につけず、髀肉の嘆を託(かこ)つ毎日だ」
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(出典)【三国志・蜀書・先主伝】注引【九州春秋】より
備住荊州數年、嘗於表坐起至厠、見髀裏肉生、慨然流涕。還坐、
表怪問備、備曰「吾常身不離鞍、髀肉皆消。今不復騎、髀裏肉生。
日月若馳、老將至矣、而功業不建、是以悲耳。」
(書き下し)
備(び)荊州(けいしゅう)に住むこと數年(すうねん)、
嘗(かつ)て表の坐に於(おい)て起(た)ちて厠(かわや)に至り、
髀裏(ひり)肉生ずるを見て、慨然(がいぜん)として流涕(りゅうてい)す。
坐に還(かえ)るに、表怪しみて備に問う、備曰く
「吾(われ)常に身(み)鞍(くら)を離れず、髀肉(ひにく)皆消ゆ。
今復(ま)た騎(の)らず、髀裏(ひり)肉生ず。日月(じつげつ)
馳(は)するが若(ごと)く、老(おい)將(まさ)に至らんとして、
功業建たず、是(ここ)を以て悲しむのみ」と。
(語注)
○荊州(けいしゅう):現在の湖北省・湖南省一帯。
○髀(ひ):もも(股)。
○慨然(がいぜん):憤り嘆くさま。また、悲しみ嘆くさま。
(現代語訳)
劉備(りゅうび)が荊州(けいしゅう)に住んで数年になる頃、
劉表(りゅうひょう)の酒宴の途中で立ち上がって厠(かわや)に行き、
髀(ひ:ふともも)に肉がついているのを見て、嘆かわしい気持ちで涙を流した。
酒宴の席に戻ると、劉表は怪しんで、どうしたのかと劉備に尋(たず)ねた。
劉備はそれに答えて「私は戦乱の中に身を置き、常に馬の鞍(くら)から
離れる事がなかったので、太股の肉はみな落ちていました。
それが近頃は馬に乗る事もなく、太股に肉がついてしまいました。
月日は馳(は)せるように過ぎ去って行くというのに、
私は老年に近づいた今となっても功業をうち立てる事ができずにおり、
それが悲しいのです」と言った。
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(解説)
光武帝・劉秀(りゅうしゅう)が興(おこ)してより200年続いた後漢王朝は、
外戚(がいせき)と宦官(かんがん)に内部から蝕(むしば)まれて、
滅亡への道をたどる事となりました。
外戚(がいせき)とは皇后の母方の一族の事で、宦官(かんがん)とは
去勢(きょせい)され、本来は後宮の雑務にあたった人々の事です。
彼らが陰に陽に政治への発言力を強め、後漢の政治腐敗は頂点に達しました。
悪政という人災に加えて、旱魃(かんばつ)・飢饉(ききん)などの
天災も追い打ちをかけ、社会不安が高まる中で、
太平道という宗教結社が全国に暗然たる勢力を持ちました。
やがて太平道の信者たちは、朝廷に反旗を翻(ひるがえ)して立ち上がります。
天地を揺るがしたその大反乱は、信者たちがみな黄色い頭巾をかぶっていたため、
「黄巾の乱(こうきんのらん)」と呼ばれました。
「黄巾の乱」は官軍によって鎮圧(ちんあつ)されますが、これが契機となり、
朝廷にはもはや全国を統治する能力がない事が明らかになりました。
そしてこの混乱に乗じて、野心勃々(ぼつぼつ)たる群雄が
全国に割拠(かっきょ)する戦乱の時代の幕開けとなり、
やがて魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国時代が訪れます。
三国のうちの一つ、蜀(しょく)の初代皇帝となった劉備(りゅうび)の出自は、
前漢を興(おこ)した劉邦(りゅうほう)の孫・中山靖王劉勝の
末裔(まつえい)だと言われます。もっとも、社会の混乱に乗じて、
皇族や名門の末裔だと偽称した人物も数多くいたはずで、
劉備が確かに皇族に連なる人物であったかどうかには、疑問符がつくところです。
劉備は幼い頃に父を亡くし、母とともに「草鞋(わらじ)」や「むしろ」を売って
生活していました。そんな貧乏暮らしであったのですが、
後に自ら皇帝を名乗るだけの事はあり、幼い頃にはこんなエピソードが残っています。
劉備の家の近所に大きな桑(くわ)の木があり、生い茂った葉は、
遠くから見るとまるで貴人が乗る馬車の幌(ほろ)のように見えました。
ある人がその木が非凡であるのを見て、「この家からはきっと貴人が出るだろう」
と言いました。幼い劉備はその木を見て、「私はいまに必ず、
こんな羽葆(うほう)の蓋車(がいしゃ)に乗るのだ」と言いました。
「羽葆の蓋車」というのは羽飾りのついた幌(ほろ)のある馬車で、
すなわち天子の乗る車の事です。それを聞いた叔父は慌てて、
「馬鹿な事を口走るな、一族皆殺しにされてしまうぞ」
とたしなめたといいます。(※1)
やがて成長した劉備は、学問をあまり好まず、美しい衣服を着るのを好みました。
優等生タイプではなかったようですが、口数が少なく、人に対してはへりくだり、
喜怒哀楽を顔にあらわさず、豪傑と交わりを結ぶのを好んだといいます。
大人物の風格があり、地元では、いわば顔役のような存在でした。
そんな劉備が、歴史の表舞台に躍り出る第一歩となったのが、黄巾の乱です。
黄巾の乱が起こると、劉備は仲間を引き連れて官軍の討伐軍に参加しました。
そこで手柄を立て、地方の役人に抜擢されます。その後、徐々に
名を知られるようになってゆきましたが、後ろ盾(うしろだて)を持たぬ劉備は
なかなか安定した勢力を築くまでにはいたらず、
有力な群雄たちと手を組んでは離反する日々が続きました。
かくて劉備は、関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)といった
腹心の部下たちを引き連れて流浪(るろう)の生活を続け、40代にさしかかった頃、
劉表(りゅうひょう)という群雄のもとに身を寄せます。
しかし劉表もまた、自分の領地に劉備を受け入れたものの、
その野心を警戒して重く用いようとはしません。
そんなある日、劉表の開いた宴席に劉備も招かれました。
杯を重ねた劉備は、席を立って厠(かわや)に行きます。用をたそうとした時、
自分の髀(ひ)、すなわち太股(ふともも)に肉がついてたるんでいるのに気付き、
覚えず嘆かわしい気持ちになり、涙を流しました。
宴席に還(かえ)ると、劉表は劉備の様子を怪しんで、
「一体どうなされたのか?」と尋(たず)ねました。
劉備が答えて言うには、「私はこれまで戦乱の中に身を置き、
常に馬の鞍(くら)から離れるという事がなかったため、
股(もも)に肉がつくという事はありませんでした。
それが今では、こうして劉表殿のもとに身を寄せ、馬に乗る事もなくなり、
股(もも)には贅肉(ぜいにく)がついてしまいました。
月日(つきひ)は瞬(またた)く間に過ぎ去り、老年が迫っているというのに、
いまだに功業をうち立てる事もできません。それを悲しんでいるのです」(※2)
心ならずも安逸(あんいつ)な暮らしに埋もれ、
髀(ひ:ふともも)に肉がついたのを嘆いたこの故事から、
功名を立てる機会を得られない嘆きを
「髀肉の嘆(ひにくのたん)」と言うようになりました。
しかし劉備は「髀肉の嘆」をかこちながらも、いつまでも安穏(あんのん)と
客将の境遇に甘んじている人物ではありませんでした。
三顧の礼(さんこのれい)を尽くして、諸葛亮(しょかつりょう)という
稀代(きだい)の政治家を幕僚に迎え、中原地方ではなく四川地方に進出し、
そこに蜀(しょく)を建国して三国時代の皇帝の一人となりました。
長い流浪の間もくじけずによく苦難に耐え、抱き続けた大志によって、
最後には一国の主(あるじ)たり得たのです。
後の小説『三国志演義』では、劉備は仁徳の人で、朝廷や民衆の苦しみを思っては
しばしば涙を流すおとなしい人物として描かれています。
もちろんそういう面もあったのでしょうが、生き馬の目を抜く乱世を生き延びるには、
相当したたかな一面もあったはずです。それを証明するかのように、
当時の人々の劉備評は、警戒感を伴うかなりシビアなものも多いようです。
魏(ぎ)の曹操(そうそう)の参謀・程イク(ていいく:
「イク」は「日」の下に「立」)と郭嘉(かくか)は、
曹操のもとにいた劉備に異心ありと看破しており、兵を与えてはいけないと
危惧(きぐ)を強めていました。(※3)また、裏切りの人生を歩んだ
猛将・呂布(りょふ)は、縛り首にされる間際に劉備を指して
「この男こそ最も信用できないのだ!」と罵り、(※4)
呉(ご)の孫権(そんけん)の参謀・魯粛(ろしゅく)は親劉備派だったのですが、
それでも「劉備は天下の梟雄(きょうゆう)だ」と言いました。(※5)
梟(きょう)とは「ふくろう」の事で、梟雄という言葉には、
「猛々しい英雄だが、どこか信用ならない」という響きがあります。
言うなれば劉備は、器(うつわ)として部下ではなく君主だったのであり、
長く人の下についている事ができなかったようです。
また魏(ぎ)の大臣に裴潜(はいせん)という人物がいます。
裴潜は主君・曹操に「卿は以前、劉備とともに荊州で過ごした事があるが、
彼の才略をどう思うかね?」と尋(たず)ねられると、こう答えました。
「中原に住まわせたならば、世を乱す事はできますが、世を治める事はできません。
しかし、もし辺境の険阻(けんそ)な地に拠(よ)って守りを固めたならば、
十分に一方の主(あるじ)となる事ができるでしょう」(※6)
中央政権に組み込まれて有能な歯車としておさまるには、
劉備はあまりにも野心家である、というのが裴潜の劉備評でした。
その予言通り、劉備はまさしく地方政権の主におさまったわけで、
劉備がどのような器(うつわ)であるかを
見事に喝破(かっぱ)していたと言えるでしょう。
「髀肉の嘆」は、言うなれば、いまだ果たせずにいる野心の裏側です。
血なまぐさい戦乱の世に生きた参謀たちは、その鋭敏な嗅覚(きゅうかく)で、
劉備の鷹揚(おうよう)な性格の奥に潜(ひそむ)む
乱世の梟雄(きょうゆう)の匂いを、正確にかぎ分けていたようです。
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(※1)『三国志・蜀書・先主伝』参照。
(※2)『三国志・蜀書・先主伝』注引『九州春秋』参照。
(※3)『三国志・魏書・程イク伝』『三国志・魏書・郭嘉伝』参照。
『郭嘉伝』が注に引く王沈の『魏書』には、郭嘉が「劉備を保護するべきだ」
と述べたという逆の内容の記述も見えます。
(※4)『三国志・魏書・呂布伝』参照。
(※5)『三国志・呉書・魯粛伝』参照。
(※6)『三国志・魏書・裴潜伝』『世説新語・識鑒』参照。
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発行者だより φ(.. )
後漢末から三国時代への過渡期、董卓(とうたく)という
暴虐非道を絵に描いたような将軍が現れました。
民衆の恨(うら)みたるや凄まじく、
董卓が非業(ひごう)の死を遂げると、
その死体のへそに灯心を置いて燃やしたといいます。
贅沢三昧(ぜいたくざんまい)の生活をしていた董卓は肥満体で、
そのへそからは絶える事なく脂(あぶら)が流れ出て、
灯(とも)された火は、何日もの間、消えなかったとか。
それに比べれば、劉備(りゅうび)は太股に肉がついただけで
自分の安逸ぶりにはっと気付いたので、
一国の主となれたのかも知れませんね。
有名なエピソードからマイナーな逸話まで色々と取り上げつつ、
頑張って行きたいと思いますので、今年も宜しくお願い致します!
それでは、また☆(2002.1.14)
次回予告「登龍門(とうりゅうもん)」
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白眼視/竹馬の友/破竹の勢い/朝令暮改/梁上の君子/白眉/塞翁が馬
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