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ぼーる通信


2006.10.27

ぼーる通信 〜Voice From The Dreamfield〜 2006年度日本シリーズ特別記念第1号


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  ぼーる通信 〜Voice From The Dreamfield〜 
       2006年度日本シリーズ特別記念第1号

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 読者のみなさまこんばんは。今日、ついに北海道日本ハムファイ
ターズが44年の沈黙を破り、日本一に輝きましたが、今日から4
夜にわたって、アトムフライヤーさんにファイターズの歴史を語っ
ていただきます。

 思えば1981年。私は後楽園球場の第5戦、放送席ブースの近
くに座り、ファイターズの応援をしておりました。周りは巨人帽を
かぶった大人たちばかり。そんな中、多少なりとも居心地の悪い思
いをしながら観戦していたのを覚えています。
 この年から阪神タイガースファンとなった私は、放送席に座って
いた当時のタイガースの4番、掛布雅之さんに憧れのまなざしを向
けながら、タイガースをペナントレースでかわしていった巨人の戦
いを、うらめしそうに眺めていたわけです。

 しかし子供であった私は、ファイターズのことなんか知らない。
もちろん私は昔、野球がそれほど好きではなく、ブラジル帰りであ
ったためにサッカーのことにしかほとんど興味がなかったのですが、
ただ、黒人選手が好きだったからソレイタ選手を応援していた、そ
れだけでした。今をときめく当時のファイターズの監督、大沢親分
のことなんか知らなかったし、ましてや張本勲さんがこのチームの
4番を長くつとめていたことも知りませんでした。

 この無知はいったいどこから来るのか。私は大人になってから考
えました。そして、それが、私が1998年に命名したところの
”カイシャフランチャイズ制度”が原因になっていることを理解し
たのです。
 ほかの企業の持ち物だった時期の球団の歴史を、いまの企業に語
れるわけがない。それは、”企業の論理”としておかしいし、単な
る他企業への利益供与にすぎないのではないか、という発想が根底
にあるということがわかったのです。

 しかしそれは、私に言わせれば旧い考えです。企業は何も、敵対
するだけではない。利益になるとわかれば、当然協調した行動もと
るし、場合によっては合弁事業も立ち上げるわけです。
 お互いの企業を宣伝することで良好な協力関係を築き、お互いの
利益を増やすという方法もある。

 だが、いまの日本プロ野球を見ていると、オーナー会議が利益収
奪の場であると同時に、お互いがいがみ合う場になっており、しか
も、敷居の高い会員制秘密クラブのような状況の中、オーナーの特
権意識ばかりが先行し、チームはこれに思い入れて支えあう人たち
みんなのものである、という意識が欠けています。
 であるがゆえに、宮内さんや堤さん主導の1リーグ騒動が起こり、
渡邊主筆がこれに引っかきまわされたわけです。単なる1企業の、
そしてオーナーたちのエゴと企業判断が先行し、愚かな騒動を招い
たのです。

 これは経済学でいう”囚人のジレンマ”の典型例で、無駄な意地
の張り合いがどれだけ利益損失を招いているかということを示して
いるだけでなく、チームという公共物の公共性を、大きく失わせし
めているのです。

 そろそろ日本のプロ野球は、お互いに利益を食い合うということ
をやめていかなければならない。私はアトムフライヤーさんととも
にこの流れを止め、新たな潮流をつくるために、合理的、かつ、新
しい考え方を、旧い事件を新たな視点で取り上げることを通じ、読
者のみなさまに示していきます。そして、そのひとつとして、企業
の個別の事情にとらわれない、チームのきちっとした歴史シリーズ
を、このぼーる通信のアーカイヴとして残していきます。

 読者のみなさまも、ぜひこれをお役立てください。将来的には、
きちんとした日本プロ野球のチームの歴史のコーナーをぼーる通信
のアーカイヴに載せる予定です。

 ぼーる通信 編集長 Thomas Gwynn Mountainbook

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★ お品書きその1 Team Chronicles
    〜The History of Nippon Profesional Baseball Teams〜

 Series 1 北海道日本ハムファイターズ byアトムフライヤー

 その1:セネタース〜フライヤーズ編(1945-1960)

 さて、今日、ついに日本シリーズをファイターズが制しましたが、
読者のみなさまは、2006シーズンにおける日本一チーム、北海道日本
ハムファイターズの歴史についてどれだけご存知でしょうか?私は、
近年は次第に知名度が上がってきていることからチームのフランチャ
イズ地域に根付きつつあるパ・リーグの各チームも、チームを所有す
る会社の変遷に伴い、過去の歴史が抹殺されてしまってきていること
もあって、その歴史についてご存知ない方も多くおられるのではない
かと思いました。
 そこで私は、MBさんと数回にわたって打ち合わせを行い、チームの
歴史シリーズを特別編としてぼーる通信にて配信することにいたしま
した。日本のプロ野球では比較的知名度が低い球団を中心に取り上げ
ていこうと思いますので、よろしくお願い申し上げます。

 ファイターズのルーツは、戦後の混乱期の1945年11月にまで
遡ります。この時期、戦前に解散した東京セネタースの監督を務めた
横沢三郎を中心に、セネタースとして戦後再開したプロ野球にいち早
く加わりました。当時の日本プロ野球連盟に加わっていたチームは、
*1東京巨人軍、阪神、阪急、近畿グレートリンク、中部日本、ゴール
ドスター、太平パシフィックでしたが、セネタースはその一員となっ
たのです。

 ちなみにこの第2次セネタースは、戦前のセネタースを共同で所有
していた貴族院議員の有馬頼寧やその弟の安藤信昭、ならびに西日本
鉄道との資本関係はなく、会長には貴族院議員の西園寺公一が就任し
ていたのですが、第2次セネタース設立の中心となっていた横沢三郎
が東京セネタースの監督を勤めていたことから、セネタースの名前を
引き継ぐような格好となったのです。

 また、戦前のセネタースと同様、監督には球団の代表でもあった横
沢三郎が就任しましたが、選手には、その弟で内野手の七郎をはじめ、
社会人野球からは日立航空の飯島滋弥、東京六大学の慶應義塾大学か
らは白木義一郎、そして、戦争のため、試合に出場しないまま明治大
学を中退した大下弘等を迎えて、チームはスタートしています。

*1 東京巨人軍、阪神、阪急、近畿グレートリング、中部日本、ゴー
ルドスター、太平パシフィック 

 1946年当時のセネタース以外の各チームの呼び名はこうであった。
ちなみに翌年から、阪神は大阪タイガースに戻り(1939年までは大阪
タイガースと名乗っていた。大和球士氏の“野球五十年[時事通信社、
1960]”によれば、もともと阪神電鉄が巨人の前身である大日本東京倶
楽部の”東京“に対抗する意味で、大阪タイガースとチーム名を名づ
けている。阪神タイガースになったのは1961年から)、阪急は球団名
を公募して、ブレーブスと名乗っている。中部日本も中部日本ドラゴ
ンズ、近畿グレートリングも南海ホークスと、戦後プロ野球ファンの
みなさんにもお馴染みの名前が登場する。

 翌年、プロ野球が復活して最初のシーズンである1946シーズン
には、エース白木、飯島、大下等が活躍しましたが、読売巨人軍や阪
神のようにプロ野球経験者がかなりの数加わっていたわけではなかっ
たセネタースは、8チーム中5位に終わります。また、チームが低迷
した原因は、経験不足ということに加えて、シーズン中から身売りの
話がささやかれたために、選手が動揺していたということもありまし
た。そしてシーズン終了後、球団は、経営不振から東京急行電鉄に身
売りし、代表だった横沢監督と横沢七郎は去っていったのです。チー
ムのオーナーには大川博が就任し、チーム名をフライヤーズと変えま
した。
 続く1947シーズンは、戦前のスター選手だった苅田久徳がプレ
イングマネジャーとしてチームを率いますが、選手層の薄さから6位
に終わっています。

 ところが1948シーズンは、様相が一変します。中日から小鶴誠、
金山次郎、野口正明等が移籍で加わったのです。これは、いずれどこ
かでお話しすることもあろうかと思いますが、いわゆる中日のお家騒
動の末に小鶴等8人が新球団大映スターズに移籍を試み、新球団の主
力として再出発しようとしたところ、連盟が大映の参加を認めなかっ
たために、東急に選手を貸し出す形で移籍してきたのでした。球団名
も急映フライヤーズとなり、戦力的には優勝を充分狙える陣容が整い
ました。

 しかし、実力で勝る中日からの移籍組がレギュラーの大半を占めた
ため、世間からは「中映ドライヤーズ」と呼ばれ、そのこともあって
か、東急の生え抜き組と移籍組の折り合いが悪く、チームはバラバラ
になってしまい、結局5位に終わります。

 1949シーズンは、大映が経営危機の金星球団を買収し、経営か
ら離れたため、再び球団名は東急に戻りましたが、中日からの移籍組
とともに看板のひとりだった飯島をいっしょに引き抜かれて戦力、人
気は低下します。監督は、前年まで阪急の助監督兼選手で活躍した井
野川利春がプレイングマネジャーとして率いますが、主砲大下の前半
の不調が響いて、8チーム中7位で終わりました。

 そして、1949年のシーズンオフ。新球団毎日オリオンズ、近鉄
パールスの加盟を巡って既存8球団が賛成・反対に分かれて対立する
と、新球団の加盟に反対した巨人を中心とした球団がセ・リーグに集
まり、賛成した南海、阪急、毎日を中心にした球団がパ・リーグに集
まり、既存の1リーグが2リーグに分裂しました。この結果東急は、
阪急、南海を中心とした電鉄リーグの誘いからパ・リーグに参加する
こととなります。

 このシーズンオフは、球団の数が倍近く増えたために既存球団から
の引き抜きが激しくなり、阪急ブレーブスとともに引き抜きの標的に
された東急フライヤーズは、大下、白木、皆川定之、常見昇、浜田義
雄は残ったものの、黒尾重明、森弘太郎、片山博、長持栄吉、大沢清、
清原初男、塚本博睦等の主力選手を失ったため、大幅な戦力低下とな
ってしまいました。

 すると翌1950シーズンは、監督には戦前社会人野球で活躍した
安藤忍を迎えますが、戦力の低下から6位(7球団中)に終わりまし
た。2リーグ分裂後のこの順位なのですから、1リーグ時代、8チー
ムの6位とは事情が異なります。のちにパ・リーグが6球団となって
いることを考えると、戦力が整わない新球団である近鉄パールスのお
かげで最下位を免れているだけですから、実質的には最下位も同じで
した。ちなみに活躍したのは、首位打者とベストナインに選ばれた大
下と常見、浜田くらいではあったのですが、新鋭の米川泰夫が台頭し、
23勝をあげて気を吐きました。

 1951シーズンは安藤が総監督になり、再び監督は井野川に戻り
ましたが、新戦力の補強がほとんどなく、相変わらず戦力の整わない
近鉄パールスの不振がひどいので最下位こそ免れているものの、弱小
球団であることには変わりありませんでした。以後、豪放磊落男とし
て知られ、南海軍の創設に関わった岩本義行が監督に就任した195
6年までは、最下位から2番目が定位置になり、東京を本拠地としな
がら人気の巨人に比べると存在感のない、不人気球団のひとつとなっ
てしまったのです。

 またこのシーズン、低迷する球団の人気を支えたのは主砲大下でし
たが、シーズンオフに借金の問題による感情的な行き違いで球団と対
立し、大騒動になります。すると大下の移籍を巡って、西鉄ライオン
ズ、近鉄パールスが争奪戦に参加。裏金が飛び交い、あまりのひどさ
に一時は大下の任意引退もやむなし。としというところまできますが、
大物政治家の介入で、球団による譲渡の契約のあるライオンズへ、緒
方俊明ならびに深見安博との交換移籍が決まり、1952年のシーズ
ン中に大下はチームを去っていきます。大下との交換で移籍してきた
緒方と深見はともによく働き、特に深見はこの年に最多本塁打のタイ
トルを獲得したのですが、いくら成績を挙げたところで人気は大下に
遠く及ばず、ますます地味なチームになってしまいました。

 1954年からは東急電鉄が経営から手を退き、同じ東急グループ
にあった映画会社の東京映画配給(東映)が、経営に乗り出します。
ただしこの際、オーナーは代わっていません。大川博オーナーはすで
に1951年から東映の社長に就任していたからです。
 ちなみにこのシーズンからは、当時巨人・国鉄スワローズ・毎日オ
リオンズの3チームもホームにしていたため、観客動員力がなかった
ことを理由に後楽園球場の使用ができなくなってしまったことから、
東映は独自で駒沢球場を建設し、チーム強化のため、積極的に新人選
手の補強を行いました。1954年から1959年にかけて、毒島章
一、安藤順三、土橋正幸、久保田治、山本八郎、石原照夫、西園寺昭
夫、吉田勝豊、張本勲といった後の主力選手を入団させ、助っ人外国
人選手として、ジャック・ラドラも獲得しています。

 1957シーズンと1958シーズンは連続して5位でしたが、1
956年のシーズンオフに東急時代から中心だった米川、浜田がチー
ムを去ると、主力が、東映が補強した選手になりました。特に195
8シーズンは、毒島、ラドラ、スタンレー橋本、土橋等がオールスタ
ーに選ばれ、毒島と橋本がベストナインになり、土橋が21勝をあげ
るなど、個人の成績が上がってきたのです。戦力的には次第に整いつ
つありました。「駒沢の暴れん坊」の呼び名が定着しだしたのもこの
ころです。

 1959シーズンは、新人張本の活躍がチームを活性化させます。
張本は、野球部の暴力事件に巻き込まれ、野球部を途中で退部したた
め、中央でこそ無名でしたが、巨人の水原監督がその打撃能力を買っ
ており、事件がなければ巨人に入り、開幕から一軍を約束されていた
と言われるくらいの実力者だったので、19歳ながら6月には四番に
座り、活躍しました。また西園寺、橋本、吉田、土橋等も成績を伸ば
したので、チームとしても球団創設以来、初めてAクラス(3位)に
入ったのです。ちなみにこの年、張本が球団初の最優秀新人選手に選
ばれています。もはや誰もフライヤーズを弱小球団とは呼ばなくなっ
ていました。
 しかし期待された1960シーズンは個人プレーが目立ち、チーム
としてまとまりがなかったので、結果的には5位に終わっています。

 次回はフライヤーズの全盛期、そして、その影の立役者としてフラ
イヤーズを支えてきた大川博オーナーが逝去されるまでの話です。

(アトムフライヤー)

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