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ぼーる通信


2008.05.20

ぼーる通信 〜Voice From The Dreamfield〜 大阪近鉄バファローズ特集号 その2


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  ぼーる通信 〜Voice From The Dreamfield〜 
      日本プロ野球史:大阪近鉄バファローズ(2)

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☆ お品書き

●Team Chronicles
〜The History of Nippon Professional Baseball Teams〜

   Series 2:大阪近鉄バファローズ 第2回
                 by アトムフライヤー

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 【第2回】 パールス編:その2

 読者のみなさまこんばんは。今回は、パールス時代につい
て、さらに紹介していきます。

 1950シーズンは最下位に沈んだまま、1度も浮上して
こなかった近鉄パールス。
 その後も戦力増加をねらって移籍組で戦力を補充する一方、
新人を積極的に起用して育てようとするのですが、新人がプ
ロの壁に翻弄される一方、移籍組は他球団から戦力外になっ
た選手ばかりで盛りを過ぎていたために戦力にならず、翌年
から1953年まで、4年連続最下位になってしまいました。
この間に1952シーズン末、監督は朝日新聞の運動部長だ
った芥田武夫に代わっています。
 
 パールスのオーナーだった近畿日本鉄道の佐伯社長は、日
本野球草創期には強豪で鳴らした第三高等学校(現在の京都
大学)出身で、その関係から、パールス創設当初の球団社長
として、その第三高等学校時代の先輩であった猪子一到を球
団社長に招いていました。
 そしてその猪子社長はまだ若いときに、大日本東京倶楽部
(現在の巨人)発足当時はプロ野球よりも強かった満州クラ
ブの会長で、その満州クラブに在籍していた当時にお世話を
していた芥田に声をかけたのでした。
 芥田は満州クラブ時代、身体を壊して選手生活にピリオド
を打とうと考えていた際、それにもかかわらずチームに残っ
て監督をやってくれ、と当時の猪子会長に温かく言ってもら
ったことがあったのですが、健康を理由にそれを丁重に断り、
満州を去って日本に戻ってきたという経緯があったので、そ
のときの恩を返そうと思っていました。
 それから後日、佐伯オーナー、猪子パールス球団社長、村
山朝日新聞社長、そして芥田の4人は会食し、この席で佐伯
オーナーは村山朝日新聞社長に対して、
 
 「芥田さんを養子にもらい受けます」
 
 と断りを入れ、芥田パールスが誕生することとなったので
す。

 芥田は、1953シーズンはチーム把握に努めました。
 そしてチームを掌握した1954年のシーズン、野手に
*9日下隆、*10小玉明利、*11戸口天従、*12鈴木武等の若手
を大胆に起用する一方、移籍組の木村勉、武智修、鬼頭政一
等もうまく使いました。投手では、ベテラン沢藤に若手の
*13田中文雄、関根潤三等が二桁勝利をあげ、初めてAクラス
に(八球団中四位)上がっています。
 躍進の要因は、ヒット・エンド・ランを中心としたオーソ
ドックスでシンプルな野球と、ストライク・ボールの概念の
徹底でした。1球ストライクをとられるまでじっくり球を見
ていく待球作戦と、当時はまだまだ日本プロ野球で普及して
いなかったヒット・エンド・ラン、つまり、打ったら塁にい
るランナーは走る、という単純な作戦にもとづく意識改革が
うまくいったのです。これは芥田が早稲田大学の選手時代、
飛田穂洲監督に受けた、“基本に忠実に”という教えを実行し
た結果でもありました。

*9 日下隆
法政大学から恩師の藤田監督に誘われ、1952年に近鉄パ
ールスに入団。外野をつとめ、1954年には四番を打ち、
野手でチーム初のオールスター出場を果たした。長打力に乏
しく、本塁打は通算1本という記録が残っている。1958
年に引退。その後は高校野球の監督をつとめた。

*10 小玉明利
兵庫県神崎工業から1953年、近鉄パールスにテストで入
団。1954年、芥田監督から三塁手に抜擢されて、レギュ
ラーになる。1956年から四番を打ち、以後リーグを代表
する三塁手となり、近鉄パールス→バファロー→バファロー
ズの野手で、初の全国区の顔となった。
通算130本塁打と長打力にはやや欠けたが、バファローズ
史上最多の1877安打を記録している。通算盗塁数135
個と足も速かったが、三塁手としては守備範囲が狭く、「不動
の三塁手」と呼ばれた。オールスター出場9回、ベストナイ
ン5回、バファローズ史上に残る選手のひとりである。
1967年は兼任で監督をつとめた。夏までは好調だったが、
判定を巡って暴力を振るい退場処分になると失速し、結局最
下位となったため、責任を取って辞任し、阪神タイガースに
移籍した。
通算1963安打を記録している。監督をひきうけなければ
2000本安打を打ったであろうと言われている。1968
年に引退。その後はプロ野球界から姿を消した。

*11 戸口天従(とぐちたかつぐ)
法政大学から1953年、近鉄パールスに入団。二塁手をつ
とめた。
1960年に阪急ブレーブスに移籍。黄金時代を築く前のブ
レーブスの一塁手となり、五番を打って活躍した。1966
年に引退。

*12 鈴木武
東洋レーヨンから1953年に近鉄パールスに入団。芥田監
督から新人で遊撃手に抜擢されてレギュラーになり、40盗
塁を記録。翌年は、71盗塁で盗塁王を獲得した。
その後、千葉監督との確執から二軍に落とされていたが、三
原監督に乞われて内野強化のために1960年6月に大洋ホ
エールズへ移籍し、守備と走塁で優勝に貢献した。1963
年に引退。2004年に死去。

*13 田中(現姓:武智)文雄
大日本土木から近鉄パールスの結成に参加。1954年にチ
ーム初の年間20勝をあげる。メディアの注目がまったくな
かったが、パ・リーグ初の完全試合を達成している。通算1
00勝。パールス創設期を支えた投手のひとり。引退後はコ
ーチを2年間つとめ、現在は、ネクタイの製造販売会社を経
営している。

 しかし、翌年は再びBクラスに落ちてしまいました。西鉄
ライオンズ、南海ホークス、毎日オリオンズが常にパ・リー
グ優勝を争う中、パールスはその蚊帳の外に置かれ、戦力不
足の大映スターズ、高橋ユニオンズと最下位を争う始末です。
そして、大映スターズが高橋ユニオンズを吸収合併した後、
さらにこの新大映ユニオンズが毎日オリオンズと合併してパ・
リーグの再編成が行なわれていく中でも近鉄パールスは他球
団から取り残され、1958年には1953シーズン以来の
最下位に落ち、年間29勝(97敗4分)しかできず、「ボロ
鉄」と呼ばれるようになってしまいました。
  創設時に法政大学を中心に選手を集めたため、派閥が生ま
れてしまった上に、球団や佐伯オーナーが、善意からである
とはいえ、現場をわかっていないまま、ヘタにタニマチ気分
で選手の起用について口出しすることから、モチベーション
が下がってチームがまとまらず、いつしか、負けても平然と
している選手が大半を占めるようになっていったのです。
 そんなこともあって、関西の野球ファンたちからは、

 「プロ野球は大阪タイガース、南海ホークスに限る。阪急
ブレーブスは強くないから困りもの。近鉄パールス?あんな
チーム見る価値がない」
 
 と揶揄され、パールスは当時ノンプロといわれていた社会
人野球チームよりも弱いと囁かれるようになり、ボロ鉄は野
球人生の墓場、とまで言われるようになってしまったのでし
た。

 この近鉄パールスの低迷ぶりについて具体的にいえば、ま
ず、1950年−1958年までにベストナインの選出が1
2球団で唯一無く、オールスターの選出ものべ9人、野手は
4人というありさまだったことが挙げられます。
 巨人戦によるテレビ・ラジオの中継がなかった上に、もと
もとパ・リーグは知名度の点でセ・リーグより劣っているに
もかかわらず、パールスは特にスター選手がいないため、メ
ディアで取り上げてもらえず、営業方は苦労していたのです。
親会社が金持ちでも球団にかけられる予算は少なく、待遇は
巨人等と比べると歴然とした差がありました。

 球団フロントも弱小チームから脱出しようと様々な工夫を
しますが、チーム運営については素人に毛が生えた程度の人
材しかいなかったので、うまく行きませんでした。
 たとえば1953シーズン、球団は、若手で実力をつけて
きた関根を売り出そうとして、*14親会社を動員した組織票で
彼をオールスターゲームに選出させましたが、この行為は
「関根ごときが荒巻(淳、毎日オリオンズ)や柚木(進、南
海ホークス)より実力があるわけないだろう。恥を知れ」と
世間からすさまじい非難を浴び、関根自身もそれを気にして
か、後半調子を落としてしまうなどさんざんな結果に終わっ
てしまったのです。

*14 親会社を動員した組織票
2リーグ制度導入以後にオールスターゲームがはじまったの
は1951年だが、開始当時は18名を連名ではがきに書く方
式だったので、組織票を入れるのにはハードルがあった。
しかし、1953年には制度が変わり、単名をはがきに表記
するだけでもOKとなったので、組織票が可能になったもの
と考えられる。

 1951年末には東急フライヤーズが主砲大下弘を放出す
ると知り、入団工作を行いますが、同年12月1日から野球
協約が発効しているのを把握していなかったため、協約に基
づいて球団同士の譲渡契約を成立させた西鉄ライオンズに大
下をさらわれてしまい、せっかく大下の後見人に金銭を使っ
て入団工作をしたことが無駄に終わってしまいます。
 またこの件と同様に、1958年末の大阪タイガースにお
ける田宮謙次郎の10年選手の権利行使による移籍の際も、
入団寸前で大毎オリオンズにさらわれてしまいました。パー
ルスは大物選手の獲得競争に、次々と敗れてしまったのです。

  一方、7球団制による変則的な試合日程を解消するため無
理矢理誕生した高橋ユニオンズが戦力不足で困っていたため
に、選手を提供する目的で、自軍ではくすぶっていた杉山光
平選手の譲渡を申し出ると、その杉山選手を南海ホークスに
強引に取られたうえに、杉山選手自身がホークス優勝の原動
力として活躍してしまい、選手の使い方も知らないのかとバ
カにされてしまいます。

  この間のハイライトは、1954年に*15山下登が対高橋
ユニオンズ戦でノーヒット・ノーランを、1955年に武智
文雄(旧姓田中)が対大映スターズ戦で史上2人目パ・リー
グ初の完全試合を達成したこと、また、力をつけてきた小玉
明利選手がオールスターの常連になったことくらいでした。

*15 山下 登
兵庫県兵庫工業高校から1953年に近鉄パールスに入団。
1954年は2桁勝利をあげ、チーム初のノーヒット・ノー
ランを達成した。 1960年に南海ホークスに移籍。19
61年に引退した。弱小球団故の酷使に泣き、実動わずか5
年であった。1976年に死去。

 次回は、パールスがチーム強化のために、あるひとを監督
として迎えたあとのお話です。


(アトムフライヤー)

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(c)2002-2008 ぼーる通信
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