2008.06.01
目からウロコの仏教入門 ── 色んな仏教 ──
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□□□ 目からウロコの仏教入門 □□
□□ 〜ひとりで学ぶ歴史と思想〜 □□□
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── 色んな仏教 ──
私はよく「大乗仏教」という言葉を出しますが、
では、「大乗仏教」とはいったい、何なのか。
それは「小乗仏教」とはどう違うのか。
他にも、上座仏教とか、原始仏教とか、色々ありますが、
これらは一体、どういうものなのか。
そこら辺について整理してみたいと思います。
まず、約2500年前にインドで実在された釈迦、これが仏教の教祖です。
釈迦自身は「仏教」という
新しい宗教を創始したという意識も言動もなかったようです。
原始仏教のスッタ・ニパータでは、始終、「バラモン」という言葉が登場し、
バラモンというものが、最上の悟りを有していることを説明されています。
つまり、釈迦の認識の中においては、
インドの伝統宗教であるバラモン教、そのものを否定しようという意識はなく、
真のバラモン教を探求して行こうというものだったろうと思います。
これは、ユダヤ教に対するイエス・キリストの立場と同じです。
しかしながら、釈迦は独自の教団を有し、
その教団の指導者であったというところから、
やはり、従来のバラモン教とは異なるのだ、という認識が後世に生まれ、
「仏教」と呼ばれるようになったのでしょう。
ちなみに、釈迦自身は、経典を残しておりません。
釈迦自身の手による経典は存在しないのです。
その理由は、当人以外は誰も知りません。
とにかく、釈迦は、文字で自らの教えを残すという作業をしませんでした。
これでは非常に困る。
不自由だということで、弟子達が記憶を基に、釈迦の教えを記録します。
そうして出来上がったのが原始仏典という経典です。
原始仏典とひと言で言っても、実に膨大な数です。
それらの仏典のずべてが、釈迦の教えを忠実に記録したものであるかと言えば、
どうやら、そうではないようです。
どうも、インド人というのは、大雑把と申しますか、いい加減と申しますか、
釈迦の名を借りて、
どんどんと自分達独自の思想を表明して行くクセがあります。
それに対し、周囲の人間も「おかしい」と言わないところがあります。
ですから、「原始仏典」と言われているものの中にも、
後世の人間が勝手に捏造したものも含まれている可能性があります。
どれが、どこからどこまでかということは、なかなか難しい事らしいです。
これにつては、故中村元博士が熱心に研究され、
中村元博士の考え方によれば、釈迦の教えは、経典が出来る前は、
詩(散文)の形式で伝承されていた。
その方が、記憶しやすいからです。
経典の中には、詩で書かれているものと、論文体で書かれているものがあります。
論文で書かれているものは、
詩で書かれているものを基に再構成されたものです。
従って、詩で書かれているもののほうが、釈迦の教えに近いことになります。
また、原始仏典はパーリ語で書かれておりますが、
釈迦はパーリ語ではなく、もっと田舎のマガダ語を使っていました。
原始仏典の中には、ところどころ、マガダ語がまじっているものがあります。
従って、その経典が最も古いことになります。
というわけで、中村元博士は、「スッタ・ニパータ」を最古の経典としているのです。
とは言え、スッタ・ニパータがそのまま釈迦の教え、
つまり「釈迦仏教」とは言えません。
原始仏典とは、釈迦が亡くなった後に、
数百年くらいかけて成立したものであり、その中には、
色んな人の考え方が入り込んでいます。
私は、釈迦の教え、そのものを「釈迦仏教」と呼んでいますが、
釈迦仏教に最も近い仏教が「原始仏教」というに過ぎません。
「原始仏教」とは、「原始仏典に基づいた仏教」ということです。
尚、原始仏典を漢訳したものを「阿含経」と言います。
釈迦が入滅してから、100年くらいは仏教教団はまとまっていたのですが、
その後、教団の中で見解の相違が生じ、「上座部」と「大衆部」に分かれます。
これが仏教教団の最初の分裂なので、「根本分裂」と言います。
その後、それらの教団の中でも、さらに複雑に分裂して行きます。(約二十派)
これを「枝末分裂」と言います。
また、この時代の仏教を「部派仏教」と言います。
この仏教分裂の歴史の中で、彼らは自らの見解の優秀性をアピールするため、
煩雑な教義を構築して行きます。
一往、釈迦の教えを記録したとされるものが「経典」。
後世の人間が、「経典」に基づき、教義を記したものが「論書」です。
この仏教分裂の時代、各部派は論書を書いて競い合うのです。
これでは、一般の在家者は、とてもついて行けませんというので、
「学」ではなく「信」と中心とした仏教を立てて行くのですね。
これが大乗仏教です。
その大乗仏教の特徴を、最もよく表わしているのが法華経です。
法華経には、「是の法は示すべからず 言辞の相寂滅せり」(方便品)とあります。
どういう事がと申しますと、
部派仏教の連中は、次々に論書を書いて、
ダルマの実体とはいかなるものかという論議をして、
教えの優劣を競い合っているが、
ダルマ(法)というものは、言葉では表現できるものではない。
言語表現の領域を超えた真理なのだ。
この真理を体得する(悟る)には、信仰によるしかない。
だから、難しい教義を理解しないような子供であっても、
たわむれに砂で仏塔を造ったり、
爪で仏画を描いたりしても、悟ることができる。
ただひと言「南無仏」と称えるだけで、悟りを開くことができる。
なぜならば、衆生を救おうと言うのが諸仏の本の誓願なのだから。
そういう事を、方便品では書いているのです。
方便品を迹門だと馬鹿にする人がおりますが、
法華経成立の歴史から考えますと、
方便品こそ、法華経において、最初に成立した原点の部分です。
法華経の真髄です。
法華経は中身の無い経典だという人がおります。
私も、そう感じていた頃があります。
ですが、中身が無いのは、当然かも知れません。
法華経は、「ダルマとは何か」のような教義は説いていないんです。
ただ、諸仏への「信」を説いているんです。
法華経には「観世音菩薩普門品」(観音経)が加わっております。
なぜ、法華経に、これが加わっているのか、私は最初は不思議でしたが、
法華経が、諸仏への信を説くことに主眼があるとわかれば、
そこに観音への信を説く「観世音菩薩普門品」があることは、むしろ、自然です。
法華経の話が長くなりましたが、大乗仏教は「信」の仏教であり、
それを象徴しているのが法華経であるということです。
阿弥陀如来への信仰を説く「浄土三部経」も、
法華経の延長線上にあることが、よく理解できると思います。
大乗仏教とは、出家者による学問中心の部派仏教に対し、
反発する思いから出て来た、在家のための仏教です。
大乗仏教のもう一つの特徴は、
釈迦だけが「仏」なのではない、とするところです。
悟りを開き、仏となった方々は、釈迦だけじゃなくて、世界中にいて当然である。
そういう考え方です。
大乗仏教が、外国で拝まれている神の名を変えて、
仏菩薩として拝むのは、こういう考え方から出ているのでしょう。
ともかく、大乗仏教の基本とは、難しい勉強をしなくても、
拝むと十方(世界中)の仏菩薩が導いてくれるというものです。
したがって、信心さえあれば、誰でも救われるのです。
対して、部派仏教は、出家して、難しい学問をしないと救われない。
だから「小乗仏教」と言って批判したのです。
「小乗仏教」とはもともと、大乗仏教側からの、部派仏教に対する別称です。
この大乗仏教は、主に、中国、朝鮮、日本と伝わり、これを「北伝仏教」と言います。
一方、部派仏教は東南アジアへと伝わり、これを「南伝仏教」と言います。
タイやスリランカでは、
部派仏教のうちの上座仏教(上座部)が信仰されております。
上座部をパーリ語で「テーラワーダ」と言います。
上座仏教側は、自分たちが「小乗仏教」と呼ばれるのを嫌がります。
しかしながら、大乗仏教が「小乗」と言って批判するのは、
大乗以前の、学問中心の部派仏教のことなんです。
難解な学問を振り回して、一般庶民が入る余地が無い。
そういう仏教です。
もちろん、部派仏教の中も、庶民派の仏教があったかも知れないし、
また、大乗仏教の中でも、後に、唯識だの、中観だの、難しい論書が出て来ます。
結局、大乗も自分達が批判した連中と同じ道をたどっているわけです。
大乗仏教でも、「天台宗」とか「華厳宗」とか、色々宗派があります。
こうした宗派は、最初からあったわけではありません。
大乗仏教は、バラバラに分裂して対立し合っていた部派仏教を、
「あいつら、何をやっているんだ」と嘲笑して、生まれた仏教ですから、
大乗は一つ、大同団結であり、宗派を起こして分裂することはなかったのです。
それでも、「唯識派」「中観派」という学問的立場の違いからの派閥はありました。
法華経や華厳経のように、そもそもの大乗仏教の精神に立てば、
こういう「学問的派閥」は生じ得ないのです。
なぜならば、「仏教は学に非ず、信なり」というのが大乗仏教ですから。
また、外道の神であっても、こだわらずに崇拝するのが大乗仏教です。
宗派など、起こらないはずです。
でも、学問にとらわれて行きますと、
どうしても、学派(中観派、唯識派等)が生じてしまいます。
さらに、大乗仏典は、色々なものがあります。
その仏典のうち、最高の経典はどれか、ということになり、
「私は華厳経こそ最高だと思う」「私は法華経こそ最高だと思う」
という主張的対立が生まれ、
そこから「華厳宗」「法華宗」というものが生じて来ます。
それは大乗仏教が中国に渡ってからです。
結局、大乗仏教も部派仏教と化して行くわけです。
インドでは、中観、唯識と出てきまして、その後に起こったのが密教です。
密教側は、密教は大乗仏教とは違うと言う分類をします。
大乗仏教側は、密教は大乗仏教の後期であるという分類をします。
密教はマントラを盛んに唱えるところが異色ですが、
思想内容は、大乗仏教と、さほど差異は無いように感じます。
大乗仏教の特徴的な部分、つまり、「煩悩即菩提」の思想を、
抽出し、前面に出したのが密教であると、私は理解しています。
密教にも、前期、中期、後期と、徐々に発展して行きます。
空海を宗祖とする真言宗は、中期密教を継承しています。
最澄を宗祖とする天台宗は、後期に入りかかった頃の密教を継承しています。
後期密教の特徴は、「性」に関する関心が高い、という事です。
まさに「性」を中心に思想や行を構築していると言っても過言ではありません。
詳細は省きますが、真言宗はこれまで、
後期密教に関しては、左道密教として排除して来ました。
(今は、そうでもないようです)
後期密教を左道密教として排除するという意味も、よく理解できます。
性に対する興味本位で創られたようなところがあるからです。
ですから、密教は「中期」と呼ばれるもので完成したのだ。
「後期」は蛇足である。
邪道である。
そういう考えが生ずるのも、無理は無いのです。
その後期密教を継承したのが、チベット密教です。
後期密教は胡散臭いのです。
ですから、チベットでは、中観思想と結びつけて、
後期密教の胡散臭さを解消しようなどという努力も見られますが、
深く入り込めば入り込むほど、独特な世界が展開します。
また、密教というのは、祈祷仏教ですから、現世利益的傾向も強いです。
現世利益的傾向が強いし、左道的だし、というので、
「宗教はアヘン」とする、共産主義から見たら、
これは排除しなければならぬ、と考えるのが当たり前です。
元の国が滅んだ理由は、
元の国主が国政をおろそかにしてチベット密教にうつつを抜かし、
日々、天女に扮した美女を舞わせ、それを楽しんでいたという歴史もあります。
もちろん、それは「法」ではなく、「人」の問題でありましょうが。
ともかく、こうした歴史も、「宗教はアヘン」との信念を、
裏付ける役割を果たします。
もちろん、宗教観の違いは、根本的問題ではありません。
中国政府がチベットを弾圧する根本的理由は、
「漢族による支配」というナショナリズムであります。
しかしながら、中国共産党とチベットが、
相容れない宗教観を持っているということも、重要な理由の一つでしょう。
以上で、だいたい、本日のテーマについては整理できたのではないかと思います。
ところで、私の仏教的立場はどこにあるのかと申しますと、「大乗仏教」です。
○○宗とか××宗とか、分裂する前の大乗仏教。
本来、大乗仏教には宗派は無いはずです。
ですから、本来の大乗仏教です。
法華経では「一乗」と言います。
ただ一つの乗り物。
「一乗」とは、「信」に基づく教え。
つまり、これが大乗仏教です。
聖徳太子は、宗派的な考え方を持っておりませんでした。
今では、聖徳太子を尊崇する宗派として「和宗」というものがありますが、
聖徳太子自身は超宗派の大乗仏教です。
そして、もともと、大乗仏教とは、そういうものです。
教義的な考え方というのは、私の中にもあります。
ですが、大乗仏教は「信」の仏教ですから、教義は二の次です。
教義も大事ですが、「信」が第一です。
諸仏菩薩を信仰する。
そこが根本。
その上で、あらゆる宗派から、学ぶべきところは学ぶ。
ついでに、もっと言いますと、大乗仏教の立場と言いますのは、
仏教にすらこだわらない立場です。
そりゃそうでしょう。
外道の神を拝むのですから。
日本仏教だって、天照八幡という日本の神を拝むのです。
宗教の垣根を越えるのが大乗仏教です。
もちろん、「なんでもあり」というわけではありません。
その根底には、理念的統一性というものがあります。
無常、苦、無我、不浄です。
こうした理念を踏まえた上で、おおらかにさまざまな宗教を受容して行く。
これが大乗仏教の立場です。
「無心」の領域に入れば、「仏教」「仏教」と、やかましく言わなくなります。
仏教の名を意識しなくても、行いのすべてが仏教となる。
それが理想だろうと思います。
次第に、釈迦や宗祖の言葉にとらわれることも無くなる。
釈迦がこう言ったとか、言ってないとか、
宗祖がこう言ったとか、言ってないとかで生涯を終えることは空しいことです。
釈迦や宗祖の尻を追いかける人生ではいけない。
八十年という自分の人生。
これは自分のものです。
たった一度で、失敗しても、誰も補償してはくれない。
釈迦も宗祖も、何もしてくれないのです。
だから自分の責任で、自分主体で生きて行かねばなりません。
釈迦や宗祖の言葉と言うのは、ヒントでしかない。
私はそう思っているんです。
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