2008.06.29
目からウロコの仏教入門 ── 絶対的幸福について ──
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□□□ 目からウロコの仏教入門 □□
□□ 〜ひとりで学ぶ歴史と思想〜 □□□
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── 絶対的幸福について ──
みなさん、幸福とは何だと思いますか?
創価学会では「絶対的幸福」という事を言います。
どのような状況になっても、
「ああ、私は幸せだ」と感じられる境涯(境地の事)が
「絶対的幸福」なのだそうです。
しかし、考えてもみてください。
たとえば、ガン細胞が全身の隅々までむしばみ、
苦痛にさいなまれている時に、「ああ、私は幸せだ」と感じられるでしょうか。
火事で家が消失し、親や子まで焼け死んだ時に、
「ああ、私は幸せだ」と感じられるでしょうか。
どんな状況にあっても、幸せだと感じ続けられる境涯など、どこにも無いんですよ。
何百万いる創価学会員のうち、一人もそんな人間など、存在しないはずです。
存在しているとしたら、脳の障害でありましょう。
「この信心を続けて行けば、やがて絶対的幸福の境涯がやって来ます。」
と言われ、連日連夜、南無妙法蓮華経と唱え、
創価学会の会合に出席し、
聖教新聞を友人、知人に売りつけ、
あわよくばセミナーに連れ込み、集団で囲んで勧誘しようとする。
選挙のたびに、「公明党!」「公明党!」と喉をからし、
年末になると、財務と称するお布施を何万、何十万と支払う。
これで絶対的幸福の境涯になれると信じて・・・
絶対的幸福なんて無いんです。
そんなものはどこにも存在しないんです。
でも、「ある」という幻想を吹き込まれて、来る日も来る日も、創価学会に尽くす。
結果どうなるか。
絶対的幸福どころか、ごく普通の幸福さえ、遠のいてしまうんです。
どんな状況にあっても、幸福と感じられる境涯なんて、絶対に無いんです。
いいことがあれば「幸せ」と感じ、悪いことがあれば「不幸」と感じる。
それが人生です。
そして、一日のうちに、何度も、「幸せ」と「不幸」が行き来するのです。
もちろん、「幸せ」を多く感じられる時期と、
「不幸」を多く感じられる時期があります。
でも、「幸せばっかり」もないし、「不幸ばっかり」も無いんです。
風呂あがりにビールを飲めば、「ああ幸せ!」と感じる。
我慢できずにおしっこをちょろっと漏らせば、「不幸!」と感じます。
私の場合、そういうことはないですけど。
だいたい、「幸せって何だろう?」と考えちゃう人ほど、
妙な宗教にひっかかるんです。
幸せというものは、考えるものではなく、感じるものなんです。
そうでしょう?
だって、仮に、生涯、全身が身ぶるいし続けるような、
すんごい幸せが存在していたとしても、
それを経験したことの無い者が、いくら頭をひねったところで、
そんな幸せについて理解できるわけがないでしょう。
普通に考えれば、今まで出会った数多くの人々の中で、
そんな幸せを享受してそうな人は、誰もいないわけですから、
つまり、そんな幸せなんて無いんだなと、わかるはずです。
「悟り」を開けば、とんでもない幸福の境地に達するのではないかと、
禅門を叩いて、日夜座禅に励んだとしても、
よく考えれば、あまたの禅僧の中にも、
そんな幸福を享受している者などいないのです。
悟るというのは「幸福」でもなんでもないわけで、
あえて言えば、「そんなすっごい幸福なんて、あるもんじゃないよ」
とわかるのが悟りなのではないでしょうか。
みんな良いこともあるし、悪いこともあるけど、
助け合って行こうじゃないか、というのが悟りでしょう。
そのあたりまえの事を、腹に落とし込んで行ことを悟りと言うのでしょう。
創価学会では、絶対的幸福がすばらしくて、
相対的幸福はレベルが低いと言うのですね。
「相対的幸福」というのは、他人と自分を比較して得られる幸福です。
あいつの使っているOSはまだ、MEだぜ。
俺はエックスピーだぜ。
そげーだろ。
というように、自分のほうが優れていると思って喜ぶ境地。
でも、別の友達がビスタを持っていたら、たちまち不幸と感じる。
だから、相対的幸福を求めていると、
キリがないという創価学会の説は一理ありますね。
しかし、人は所詮、相対的幸福からは逃れられないですよ。
だって、パーティーに参加して、回りがみんな、きれいなドレスを着ているのに、
自分だけ、継ぎはぎのよれよれの服を着て、幸せでいられるでしょうか。
相対的幸福って、人間の自然な心理なんです。
これを無視したら、それこそ「道理」に反するでしょう。
創価学会曰く「仏法は道理なり」。
他人と比較ばかりするあり方が間違っているというのは、その通りですよ。
でも、絶対に他人と比較するなというのは、おかしいのです。
だって、クジャクだって、羽を広げて、優性を競うわけでしょう。
メスを獲得するために。
「他人と比較するな」と言ったって、
相手のほうが、こっちを比較の目で見ているわけですから、無理な話ですよね。
やっぱり、「優れて」行かなくてはならんでしょう。
そのために、エステに通ったり、ジムに通ったりしているわけでしょう。
それが普通なんです。
絶対的幸福の境涯を求める創価学会員さんが、
エステやジムに通う必要は無いはずですが、通っているでしょう。
それが「普通」なんですよ。
「幸せとは何か?」と頭で考えていると、
変な宗教や自己啓発セミナーにひっかかることになります。
幸せというのは、頭で考えるものじゃなくて、感じるものです。
しみじみと、「ああ、幸せだなあ」と思うものなんです。
温泉につかって、「ああ、幸せだなあ」。
間違いなく、それが幸せなんです。
病気で寝たきりの人に質問してみてください。
「私は温泉につかって、幸せだと感じたのだが、
これが本当の幸せと言えるのだろうか?」と。
そしたら、その人はこう答えるでしょう。
「はい。間違いなく、それが本当の幸せです。」と。
「何でもないような事が、幸せであると思う」という内容の歌がありますね。
あの歌をうたっているのも、創価学会員ですが、真実は、あの通りなんですよ。
何でもないような事が幸せならば、別に創価学会に入る必要性は無いわけですけど、
その矛盾点は置いておいて、あの歌の通りなんです。
もちろん、何でもないような事以上の幸せもあります。
たとえば、宝くじで一億円当たったとか。
すんごい幸せですよね。
でも、恋人とくだらない話で笑い合っていることが、
「くだらない幸せ」ってわけじゃないですよね。
だって、一億円当たっても、天涯孤独の人であれば、
恋人とくだらない話で笑い合っている人のほうが、幸せだと思うはずですよ。
もしかしたら、一億円払って、その恋人を買い取りたいと思うかも知れませんよ。
だから、幸せって、「大きい幸せ」とか、「小さい幸せ」とか言えないんですよ。
カップ焼きそばを上手に作ることが出来た。
あのカップ焼きそばって、結構、作るのが難しいわけですよ。
最初に具を入れるのも、忘れがちですし、
もっとアホは、最初からソースを入れてしまう。
すると、湯きりで、ソースも流れてしまう。
お湯を入れてから、あんまり時間をかけ過ぎると、麺がぶよぶよになります。
だから、カップ焼きそばが上手に出来た瞬間は、幸せですよね。
これって、あまりにも小さな幸せのように感じますけど、
身体に障害があって、これをやろうとしても、出来ない人もいるんです。
幸せには、大きいも小さいも無いんです。
それが言いたくて、創価学会が「絶対的幸福」という言葉を使っているのならば、
私は文句は無いですけどね。
ただし、そのために、お経読んだり、会合に行く必要性なんて無いんですよ。
宗教なんてやらなくても、誰でも幸せを感じられるんです。
要するに、平凡な幸せこそ、幸せなんだということに、気づけばいいんです。
頭で「幸せとは何だろうか」という哲学的思考をすると、
観念が肥大化して、ノイローゼ状態になります。
お釈迦さんだって、何日も断食して、座禅して、
「幸せって何だろうか」と考えたのです。
ところが、そこに、村娘のスジャータという美少女が現れ、
ブルガリアヨーグルトを運んで来てくれた。
もちろん、ブルーベリージャムもつけてね。
美少女からの差し入れを断ることはできぬと、
お釈迦さんは、そのヨーグルトを一さじ、口に入れた。
その瞬間、
「ああ、これが幸せなんだなあ!」と実感したわけです。
「あの〜、できればコーンフレークある?」(釈迦)
「ごめんなさい。コーンフレークはないの。」(スジャータ)
「ところで、これで何カロリーくらいになるかな?」(釈迦)
「200カロリーくらいじゃない?」(スジャータ)
「やべえ。それじゃあ、今までのダイエット無駄になっちまう。」(釈迦)
「あれは修行じゃなくて、ダイエットだったんだ!」(スジャータ)
── 笑い合う二人。
そして釈迦とスジャータは結ばれました。
幸せというのは、頭で考えるものじゃないんです。
心で感じるものなんです。
ある哲学者がおりました。
妻と一人の娘がありました。
哲学者は、寝食を惜しんで、「幸せとは何か」という命題について考え続けた。
家族とテレビを観ることすらしない。
「そんなものはくだらない」と。
週末、家族でファミレスに行くこともない。
もちろん、家族旅行も行かない。
食事すら、一人で部屋でとる。
妻や娘と食事すると、気が散るのだと。
そのうち、妻や娘は、この亭主に愛想を尽かして出て行ってしまいました。
「幸せとは何か」と考えている間に、「幸せ」は目の前を通り過ぎてしまうのです。
うん。名言ですね。
同じように、「人生とは何か」と考えている間に、
「人生」は通り過ぎてしまうのですよ。
こりゃまた名言。
参りましたね。
すっかり、参ってしまいました。
幸せとは何かと考える前に、幸せと感じること。
人生とは何かと考える前に、人生を楽しむこと。
これが大事だと思います。
-【編集後記】---------------------------------------------------------------
秋葉原連続殺傷事件についてですけど、アサヒ・コムにこんな記事がありました。
東京・秋葉原の無差別殺傷事件で、殺人容疑で再逮捕された元派遣社員加藤智
大(ともひろ)容疑者(25)が警視庁の調べに、「(携帯電話のメールのや
りとりをする)メル友にも無視された」と供述していることがわかった。ネッ
ト上での孤独感を強めていたのが事件の背景にあるとみて、同庁は詳しい動機
を調べている。
万世橋署捜査本部の調べでは、加藤容疑者は2、3年ほど前から、日常的に携
帯サイトの掲示板に書き込みをしてきた。掲示板に書き込みをしてくる人のほ
かに、携帯メールで直接やりとりする人が何人かいたという。事件直前には、
この掲示板で他からの反応がなくなっており、同容疑者は「無視されたように
なった」と話しているという。
(2008年6月21日15時3分)
彼は日常で疎外感を感じておりました。
その疎外感を埋めるために、インターネットで掲示板を開設し、
そこで交流を求めていたようですね。
ところが、その交流が上手く行かなくて、余計に疎外感を感じた。
説教をたれる人はいたんですね。
彼に対し。
でも、お説教など、欲しくないわけですよ、彼は。
余計に、追い詰められてしまうわけです。
あげくに彼は、「おまえらみんな殺してやる」と、
全人類に対する憎しみを覚え、
ついには犯行声明を書くわけですよ。
彼は取り調べの中で、犯行声明を書いたことで、
引き返すことが出来なくなったと語っておりますね。
また、誰かに止めて欲しかったとも。
犯行声明を書いたことは、彼なりに、
最後の人と人とのつながりを求めたのでしょう。
つまり、誰かが止めてくれたとしたら、
その人との「つながり」を実感できると。
私もインターネット、ずっとやってまして、
ですから、彼の心理はよく理解できるんですね。
彼のやり方にも、問題はあったと思いますよ。
サイトを開設するならば、もっと、人の見るような方法があるでしょう。
誰も見ないような掲示板を開いても、しょうがないと思うんですね。
それから、会話の仕方が、やはり下手ですね。
私も、人の事は言えませんけどね。
私も、「人を遠ざけるタイプ」ですから。
それもまた、はるか彼方のほうに。
一般社会で孤独だから、ネットでつながりを求めるってありますよね。
でも、ネットでのつながりを形成するほうが、難しい場合があります。
と言いますのは、ネットはホンネの世界でしょう。
オブラートでくるまないでしょう、自分の発言を。
なぜならば、一般社会ではホンネが口にできない。
だから、ネットでぶつけるわけでしょう。
ネットは、そういう場でもあるでしょう。
しかし、ホンネを吐き出せば、多くの人は離れるでしょう。
もちろん、一部の人は、共感してくれますよ。
でも、その一部の人とも、意見交換するうち、
そのうち「違い」がわかって、これまた、関係が遮断されるでしょう。
人は、ホンネを言えば言うほど、孤独になって行くもんなんですよ。
私なんか、それが仕方ないと思ってますけどね。
ホンネを言うか、ホンネを隠して人と交流するか。
どっちを選ぶかと言うと、ホンネを言うほうをとりますからね。
だって、ネットで表面で合わせてたって、仕方ないでしょう。
ネットで人とのつながりを求めるならば、
「人生を語る系」のサイトじゃなくて、
「趣味を語る系」のサイトに行くことですよね。
そうすれば、ほとんど、人と対立しないでしょう。
対立したとしても、愉快な対立でしょう。
「やっぱり、フィギュアは安藤美姫だよね」
「妖怪っぽくない?ふつうは真央ちゃんでしょう」
みたいな会話している分には、何も波風が起こらない。
ネットを利用して人間関係を構築しようとするならば、
趣味系のサイトの常連になって、
ゆくゆくはオフ会に参加するってのがベストでしょうね。
こういうことわかってないと、
ネットでホンネを言えば言うほど、孤立する結果になるでしょうね。
かく言う私のやってる「ひとり仏教の会」の掲示板も盛り上がってないでしょう。
難しいんですよ。
「ひとり仏教」って、主義主張がみな、異なりますから。
百人百宗ですもん。
そして、仏教やっている人って、「こだわり」が大きいですから。
仏教ってのは、こだわりを捨てる教えなんですけど、そうも行かないんですね。
私などが、真宗の批判をすれば、真宗系の人は二度と書き込まないでしょう。
臨済宗の批判をすれば、臨済宗系の人は去るでしょう。
私はそんな偏狭な態度でやってるわけじゃないんですけど、
やはり、対立する考えの人のやっている掲示板には、書き込みしたくない。
また、「おっかない」という感情もあるでしょう。
書き込めば、批判されるのではないかと。
もちろん、批判されることもあるでしょう。
私のところでは、極力、そういう空気は排除するようにしてますけど、
何かを主張すれば必ず反論される。
これは世の常ですよ。
私の発言だって、そうですよ。
でも、それを恐れていたら、会話なんて出来ないですよね。
生きて行くことすら出来ません。
どっかの業者に、高い料金請求されそうになったら、
「おい、ちょっと待て!」と言わないわけには行かないでしょう。
アイスティーの中にミジンコ泳いでたら、
「なめてんのか!」って店長こづきに行くでしょう。ふつう。
まったく波風立てずに生きるってことは、世の中では有り得ません。
ネットでもそうなんですよ。
「生き方」「政治」「宗教」に関する掲示板ならば、なおさらそうです。
自分の主義主張がぶちのめされそうになったら、
「おい、坊や、ずいぶんお生意気な口利くのね」ってなるのがふつうですね。
これは、ある程度、仕方ないんですよ。
というわけで、私の掲示板にも書き込みしてくださいね。
ブログもやってます。
今のところ、誰からもコメントありません。
アラシすらない。
でもね。
私、さみしくないんですよ。
私、けっこう、リアルの世界で人気あるんです。
この前も、サイン求めらたんですよ。
旅館に泊まった時に。
仲居さんから。
写真も撮らせてくれって頼まれたんです。
運転免許更新する時に。
夜道を散歩していたら、人に話しかけられたんですよ。
「ここで何をしているんですか?」って。
腰から棒をぶらさげた人に。
人だけじゃないですよ。
鳥まで、私を慕ってやって来るんです。
この前、町を歩いていたら、
黒くてクチバシの太い鳥が、私の頭の上をかすめて行きました。
だから、ぜんぜん、さみしくないんですね。
あらあら、今も何やら、私を慕ってやって来たようです。
「チュウ」「チュウ」とか言いながら。
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