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目からウロコの仏教入門


2008.08.03

目からウロコの仏教入門 ── 理想を明確にせよ(1) ──


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── 理想を明確にせよ(1) ──

前回、知識というものは血肉化しなければ意味が無いのだ、という話をしました。

ただし、血肉化するも何も、「知識」が明確になっていないと、はじまらない。

前回は、仏教用語を羅列することで自己満足している者への警鐘として、
かのような話となったのですが、
知識が曖昧であったり、また、知識が間違っているという人は、
知識を学び直さねばならない。

マニュアルを見ながら仕事をするというのは、効率が悪くてしょうがない。
マニュアルは無意識化するまで、頭に叩き込まねばならない。
それは前回、お話した通りです。

ですが、そもそもマニュアル自体に問題がある場合は、
正しいマニュアル作りから開始せねばなりません。

まず、正しい知識というものを用意する。
しかる後に、その知識を次第に習得し、
ゆくゆくは知識を咀嚼し尽くし、知識を意識しなくとも、
手足が自然に動くようになる。

何事においても、「修得」「習熟」というものは、そのようなものです。

修行と言うものは、今の自分はダメなんだ、という思いから生じます。
「自分が最高」「自分バンザイ」という人は、修行しようとは思わない。

仏教を修行するということは、自分という者に対し、
大いなる疑問を持つところから出発します。
「こんな自分ではダメなんだ」という、限りない自己否定から出発する。

ただ、実際は、虚栄心や趣味的感覚から出発する者が多いですよね。

仏教をやっていると言うから、
じゃあ、一度、自分に挫折しているのかと思うと、そうでもない。

ただ、面白いからやっているわけです。

面白いからやるというのでは、これは「修行」ではないということになります。

「仏教をやっている」というのと「仏道修行する」というのは、まったく違います。

この辺を、もう一度、じっくり考えてみる必要があるのではないかと思います。

仏教は「懺悔」から出発するのです。
「懺悔」とは、心から後悔し、詫びることです。

自分勝手な己というものを腹の底から後悔し、侘び、
そして、そうじゃないものになって行く。
そうじゃないものとは「仏」です。

「仏」とは何かと申しますと、これはエゴから解放された存在です。

じゃあ、実際にそういう存在はあるのか。
世界を旅して回れば「仏」に出会えるのか。

ですが、生きている以上、人は我執に支配されます。
肉体を持っている以上、完全に「我執」から解放されることは出来ない。
つまり、「生きた仏」は居ないのです。

ですから仏教(大乗仏教)では、阿弥陀如来、観世音菩薩のように、
「あの世」に存在する仏を敬い、崇拝するのです。

そうすることで、我々凡夫は、限りなく、「仏」に近づいて行く。

仏教(大乗仏教)における仏は、ほとんど「あの世」の仏ですが、
「生きた仏」をまったく立てないわけではありません。
一つだけ例外があります。
それは「釈迦」です。

釈迦も肉身を持っていたわけであり、その点ではやはり、
エゴイズムから完全に解放されていたわけでは無いでしょう。

しかし、やはりそこは「教祖」でありますから、立てておかねばならないのです。

大乗仏教では、阿弥陀如来や観世音菩薩など、
崇拝対象となる仏はぞろぞろあるわけです。

ところが、タイやスリランカなどの上座仏教では、
「仏」と言えば、釈迦以外には存在しない。
だから、釈迦は完全無欠な仏として描き続ける必要があるのです。

その話は置いておきましょう。

我々は自らの我執にとことん、ウンザリし、
そして、我執なき境地、すなわち「仏」を目指す。

ウンザリするのが「懺悔」であり、仏を目指すのが「菩提心」です。

この懺悔と菩提心が仏教の基軸です。

ところが、この基軸から抜けようとした人間が鎌倉時代におりました。
法然という人物です。

法然の考えでは、末法の人間は腐りきっており、
従来の仏教の「修行」というものでは、成仏することは出来ない。
いつまでもエゴから解放されることは無い。

ただし、阿弥陀如来に帰依すれば、死後、阿弥陀如来に導かれ、
極楽浄土に生まれ変わることができる。
かの極楽浄土ならば、ラクに修行することが出来る。
成仏が可能なのだ。

この考え方を「往生」と言います。
極楽浄土に生まれ変わることです。

「成仏」とは違います。
成仏は極楽浄土に行ってから目指すもの。
末法の人々は、あくまでも、極楽に往生することを目的とせよと。

極端に言うならば、成仏とか考えるな、ということです。

(続きは次回)


-【編集後記】---------------------------------------------------------------

昨日観た報道番組ですが、銀座の帝国ホテルというのがあります。

そのホテルの前は、タクシーが客待ちできないことになっている。

しかし、帝国ホテルの正面を外せば、一時停止可能ということで、
帝国ホテルのわずかに先のところで、タクシーが停車している。

そして、ホテルから人が出て来ますと、タクシーがバックして客を乗車させる。

こうした形のバック行為も違法ですし、
通常の道端にタクシーが何台も停車しているので、交通渋滞が起こる。

そこで、おまわりさんがホテル前に張り込んで、
タクシーを追い払うという、そういう番組でした。

あるタクシーが客を乗せようとバックして来る。
そこを、警官がつかまえて、反則キップを切ろうとする。
そこでタクシーが「何で俺だけ捕まえるんだ」と食いつくわけです。

それに対し、警官は冷静に、論理的に説明を加えようとしているのです。

随分、警官も変わったと思います。

昔の警官はもっと厳しく、
「ダメなものはダメ」「反抗したら公務執行妨害」ってな感じでした。

今の警官はみんな優しい。
威圧的なところが無い。

私は、これは果たして、良いことなのかと疑問に思うのです。

世の中には法律というものがあります。
この法律を市民に守らせるのが警察の役割です。

法律というものに対して人々は、「守る」か「破る」かどっちかしかありません。
「シロ」か「クロ」です。
「グレー」は存在しません。

ですから、警察のパトカーは「シロ」と「クロ」の二色です。

まさに杓子定規で融通が利かない。

たいていの仕事は、ある程度、融通を利かせねばならない。
ところが、警察は融通を利かせてはならない。
融通を利かせれば法律の意味が無くなるからです。

ですから、あらゆる仕事の中で、警察だけは、融通を利かせてはならないのです。

融通が利かない仕事であることを、警察官は誇りに持っているのだろうか。

警察が「話しがわかる」必要は無い。
「話のわからない人だ」で結構なのです。

客待ちタクシーがバックして客を乗せようとした。
違法行為である。
だから検挙。
それだけの事です。

「何で他のやつじゃなくて俺なんだ。俺を逮捕するならばみんなやれ。」

と食いつかれたら、

「私の目の前にお前がいた。だからお前を検挙した。」でいいのです。

納得させる必要などない。
法のもとに職務を執行すれば良い。
それだけのことです。

世の中がメチャクチャになっているのは、原理原則が曖昧だからです。

なぜ人を殺してはならないか。
犯罪だからです。

なぜ自殺してはいけないか。
人に迷惑がかかるからです。

一人暮らしの人がアパートの中で自殺すると、遺体の発見が遅れてが腐敗します。
毛穴という毛穴から血が噴出し、床下まで腐る。

当然、害虫も出るし、悪臭が漂う。

特殊な清掃をしないと、元には戻らないし、次の住人も入らなくなる。
過去に自殺者の出た部屋であることを客に伝えねばならぬというのが
現在の法律だからです。

自殺をすれば多大なる迷惑を他人にかける。

他人に迷惑をかけてはならない。

このあたりまえの大原則を、今の世の中は、
少しずつ、踏み外して行ってしまったのではないかと思います。

コンビニや店の前で若者が座り込んでいる。
「ここで座り込んではいけない」と、なぜ、店の人は注意しないのか。
完全なる営業妨害ではないか。

めんどうなのが嫌で、他人に迷惑をかけている者に対し、
何も言わずに看過する風潮。

この風潮が、犯罪を助長しているのではないか。

原理原則というものを、いつの間にか、この国は忘れてしまったのではないか。

私の子供の頃は、日本は礼儀正しい国と言われていた。
世界で一番、モラルの高い国と言われていた。
夜道でも女性が一人で歩けるというのがこの国の誇りだった。

みんなが豊かに、安心、安全の国。
それがこの日本の理想だった。

その理想を、いつの間にか失ってしまった。

理想を失った国は、大海を漂流する船と同じである。

今の若者は、明日に希望が持てないという。

当たり前ではないか。

大人が理想を捨てたのだ。

日本の理想を捨て去ったのだ。

それがたとえ遠く、実現困難なことであったとしても、
みんなで理想を掲げ、努力して行こうとするところに、
国民の生き甲斐というものが生まれて来るのでしょう。

生き甲斐の持てない国。
希望の見えない国。

だから、わけのわからない犯罪が多発するのではないか。

他人を傷つけてはいけない。
自殺してはいけない。
人に迷惑をかけてはいけない。

なぜならば、誰もが他人に迷惑をかけぬようになれば、その国は楽園になるのです。

この国、日本という国を楽園にするために、
杓子定規に他人を傷つけてはならないのです。

同級生にインターネットで自分が悪口を書かれているのを見てショックを受けた。
そういう事が増えているようです。

インターネットで他人の悪口を書いてはならない。

当たり前の事です。

この当たり前の事を、大人が、社会が、
みんなで一斉に口をそろえて言わねばならないのです。

「でも」「そうではあるけれども」

などと言うような「言い訳」など要らない。

この「言い訳」が世の中を崩壊させて来たのです。

杓子定規にルールというのは守らねばならない。
じゃないと、世の中は崩壊して行く。
夢が無くなって行くのです。

みんなで楽しく笑い合って、交流して行くためには、ルールを守らねばならない。
他人に迷惑をかけないようにしなければならない。

言い訳を一切なくして、そういう取り組みをみんなで行わなければ、
「住み良い、いい環境」というものは生まれて来ない。

「ルールを守ろう」と言う人間に対し、
今の世の中は「なんだこいつは」という目で見る。

だから警察官でさえ、杓子定規な言い方をしないようになって来ている。

ですが、「ルールを守ろう」と言う人間に対し、
「おかしい」と思う世の中のほうが「おかしい」と思いませんか?

誰のためのルールなのですか。
誰のためにマナーなのですか。
自分たちのためではないですか。

原理原則というものを、いつの間にか置き去りにしてしまったのです。
この国の人たちは。

「みんなで豊かに。安心。安全の国。」

この理想を喪失してしまった。

日雇いの肉体労働をしながら、ネットカフェで年中暮らす若者に対し、
「おまえがなまけているからだ」などと言って、同情すらしない。

この国は理想を失ってしまった。

それがすべてです。

それが今日、諸々の犯罪の根本にあるところです。


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