2008.06.09
■第398回 皇帝自ら決戦場へ(後編)(チベット史入門その12)
■第398回 皇帝自ら決戦場へ(後編)(チベット史入門その12)
####################################
はからずも宿敵となった康熙帝とガルダンですが、両者が戦場で雌雄を決
することはありませんでした。
それでも勝利の女神は、康熙帝を勝者としました。
それにより康熙帝はモンゴルを領域に加え、清朝の版図の基礎を築いたの
です。
第1回から第221回までのバックナンバー一覧は、下記をごらんください。
http://blog.mag2.com/m/log/0000183170/108501028.html
####################################
●伝令の報告
康熙帝(こうきてい)は2万7千人の将兵とともに、ゴビ砂漠横断作戦を
なしとげました。
しかし、目的地にガルダン軍の姿はありませんでした。
残り少ない食糧を考えて、康熙帝は撤退の命令を下しました。
撤退を開始してから2日後、西路軍からの伝令が到着しました。
伝令がもたらした報告には、西路軍がガルダン軍と遭遇し、これを撃破し
たとありました。
●テレルジ河の戦い
この戦いは、現在のモンゴル国の首都ウランバートルの西方を流れるトー
ラ河の上流の支流の一帯で行われました。
支流の名をとって『テレルジ河の戦い』と呼ばれます。
この一帯は『ゴルヒ・テレルジ国立公園』に指定されています。
温泉が涌いており、現在のモンゴル国では有数の保養地です。
テレルジ河の周辺には、モンゴルには珍しく多くの樹が生い茂っています。
この光景はモンゴル語では『ジョーン・モド』(百本の樹)というため、
この戦いは『ジョーン・モドの戦い』とも呼ばれます。
1696年6月12日、西へ移動中のガルダン軍がテレルジ河畔にさしか
かりました。
南方の丘の上に清軍が陣取り、火縄銃をガルダン軍の方向に向けて待ち構
えていました。
これが、大激戦の始まりでした。
●『高』が有利
清軍は丘の上から、ガルダンが丘の下から小銃を撃ち合いました。
当時は、小銃が遊牧民の有力な武器になっていました。
日本に『鉄砲』が伝来したのは、この150年前です。
兵力、装備、士気が同等であれば、戦場の高地を占拠した側が有利です。
ガルダン軍は清軍陣地に肉薄しますが、突破、占領ができませんでした。
やがて、日没近くになりましたが、勝負はつきません。
清軍の将校がガルダン軍の後方を見ると、家畜の姿が見えました。
北方遊牧民は軍とともに、将兵の家族、家畜を連れています。
家畜の近くに家族がいるにちがいない、そう判断した清軍は、別動隊を編
成して、ガルダン軍の家族を襲撃しました。
突然あらわれた清軍を見て、ガルダン軍の家族は大混乱に陥りました。
後方の混乱が前線のガルダン軍に波及しました。
その隙をねらって清軍が攻撃したため、ガルダン軍は総くずれとなりまし
た。
●ガルダン死す
ガルダンは、かろうじて清軍の攻撃を回避して、西方へ逃れました。
翌年の1697年4月4日、ガルダンはアルタイ山中で病死しました。
しかし、康熙帝は公式記録には「ガルダンは自殺した」と記載させました。
ガルダンは部族長になる前は、チベットで修行した僧侶でした。
自殺は僧侶が守るべき戒律のひとつである『殺生戒(せっしょうかい)』
を破ることになります。
康熙帝はガルダンが憎かったのでしょう。
ガルダンはチベット高僧の生まれ変わりといわれていました。
死因を自殺としたことで、その神聖性を消滅させたかったのかも知れませ
ん。
ガルダンの死により、その脅威から解放されたハルハ部族の人はモンゴル
に帰還しました。
いまや康熙帝、そして清朝の威令はモンゴルにまで及んだのです。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
■ 歴史好きの素人が語る歴史(第398回)(2008年06月09日号)
(メールマガジンID:0000183170)
・ このマガジンは『まぐまぐ』から発行されています。
http://www.mag2.com/
・ 配信中止は、こちらからどうぞ
http://www.mag2.com/m/0000183170.html
・ 質問、要望、お問い合わせはこちらへ
mla75516@nifty.com
お送りいただいたメールの内容は、匿名で掲載させていただく場合が
あります。
・ 作者は、中澤勇二(台湾名 陳澤民)です。
・ 相互紹介は大歓迎です!
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
シ友達にメールで教える
ニュース・情報源ランキングトップ
まぐまぐアーカイブトップ
sお問い合わせ
(C)まぐまぐ