2008.06.28
■第406回 中国史のおさらい、国を滅ぼした皇帝(中国、裏切り者の列伝その6)
■第406回 中国史のおさらい、国を滅ぼした皇帝(中国、裏切り者の列伝その6)
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いつの時代でも改革者は、改革に抵抗する勢力との対決を余儀なくされま
す。
王朝時代であれば、君主が改革者をバックアップしなければ、改革の成功
は望めません。
改革が失敗した時が、その王朝の『終わりの始まり』です。
今回の配信は、作者の都合で1日遅れました。
誠に申し訳ありません。
第1回から第221回までのバックナンバー一覧は、下記をごらんください。
http://blog.mag2.com/m/log/0000183170/108501028.html
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●改革の結末
軍事力は弱体ながら、経済大国として繁栄を続けた宋朝にも、暗い影が忍
び寄ってきました。
経済繁栄の光の裏側での貧富の差の拡大、遼朝への莫大な経済援助による
国家財政の破綻です。
この状況の打開のためには改革が必要ですが、いつの世でも改革に反対す
る『抵抗勢力』が存在します。
当時は、改革派を『新法党』、抵抗勢力を『旧法党』と呼びました。
1067年、第六代皇帝となった神宗(しんそう)は、新法党である王安
石を信任して、改革を実行させました。
しかし、王安石の現状打開の急進的な改革は、旧法党の反発を呼びました。
新法党と旧法党の争いにより、改革は迷走状態になりました。
さらに、新法党、旧法党のいずれの内部にも派閥争いが絶えず、国政が麻
痺しました。
1085年、神宗は37歳の若さで死去しました。
●芸術家の皇帝
その後は第七代哲宗(てつそう)が継ぎ、1100年、第八代の徽宗(き
そう)が即位しました。
徽宗は第六代神宗の第11子ですが、謹厳な父とは全く正反対な性格でし
た。
即位にあたって、首席の宰相から「浪子(道楽息子)であるから皇帝には
不向きである」といわれたと記録にあります。
しかし、神宗の皇后であった向氏の意向によって、徽宗に決定しました。
当初は、新法党、旧法党の争いを止めさせて、漸進的な改革を進めました。
やがて、道楽息子の地金が出て、政治よりも趣味の世界に逃避しました。
徽宗は文人、画人として、その才能が高く評価され、宋代を代表する人物
の一人とされています。
痩金体(そうきんたい)と称される独特の書体を創出しました。
絵画では写実的な画風を完成させ、『風流天子』と称されました。
徽宗の真筆(しんぴつ)は極めて貴重な文化財となっています。
日本にある桃鳩図は国宝に指定されているほどです。
●王朝末期の予兆
それだけであれば、皇帝の趣味として許される範囲ですが、それが嵩じて
庭園造営のため、莫大な国家予算を使ったり、その庭園を飾る大岩や木を地
方から運ばせました。
そのための費用、労力は、地方の負担とされたため、民衆の不満が高まり、
やがて反乱にと発展しました。
この時代の情勢を背景にした描かれた小説が『水滸伝(すいこでん)』で
す。
官僚の派閥抗争、暗愚な皇帝の乱行、民衆の反乱という『三点セット』は
王朝の末期には、常に見られる状況です。
徽宗は実質では最後の北宗皇帝となったのですが、つゆとも知らず、当人
は遊びほうけていたことでしょう。
徽宗が最後の平安を楽しんでいたころ、宋の北方の遼朝では、激動の時代
が始まろうとしていました。
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■ 歴史好きの素人が語る歴史(第406回)(2008年06月28日号)
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