2008.07.11
■第412回 屈辱の平和(その1)(中国、裏切り者の列伝その12)
■第412回 屈辱の平和(その1)(中国、裏切り者の列伝その12)
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屈辱を排して名誉を得るか、屈辱に甘んじて平穏を得るか、どちらを選ぶ
かは人それぞれです。
その選択は、当人だけでなく、国家、国民全体が影響を受ける場合があり
ます。
耳辺りのよい強硬論に惑わされずに冷静な判断が必要です。
第1回から第221回までのバックナンバー一覧は、下記をごらんください。
http://blog.mag2.com/m/log/0000183170/108501028.html
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●中国の『シビリアン・コントロール』
宋朝の基本方針としては、軍隊は文官の統制下においていました。
いわゆる『シビリアン・コントロール』です。
これは、五代十国の時代に軍人、節度使が政治を左右したことを教訓にし
て生まれた制度です。
宋朝と周辺諸国との関係が良好であれば、なんら問題はありません。
しかし、北方の遼、金の軍事対決が避けられなくなると、宋朝には致命的
な弱点になりました。
実際にも、1127年、宋朝(北宋)は金軍によって滅亡させられました。
北宋の後を継いだ南宋も、1134年、金軍の激しい攻撃にさらされまし
た。
その危機を救ったのが、岳飛らが指揮する義勇軍でした。
それにより金軍の南下が阻止できたため、岳飛らは節度使に任命され、大
きな勢力となりました。
これは中央政府の官僚から見れば、大きな脅威でした。
唐朝時代の節度使のように、いつ官僚から実権を奪い、最悪の場合は王朝
そのものを滅亡させるかも知れません。
中央政府には、彼ら軍人は『諸刃の剣(もろはのつるぎ)』であったので
す。
●講和まとまる、しかし
1138年、高宗は秦檜を宰相に再任しました。
前年の1137年、高宗は金の使者から、父の徽宗が1135年に死去し
たこと、高宗の実母の韋(い)氏が健在であると知らされました。
これ以後、高宗は金との講和を急ぎました。
父母への孝養を尽くすためには、父の遺体の返還、実母韋氏の帰還を熱望
したのです。
その推進者として、金との交渉ルートを持つ秦檜が再任されました。
秦檜は強硬派官僚を排除し、翌年1139年、金と講和するまでにこぎつ
けました。
その講和条約の主要点を以下に記します。
1.金は黄河以南の地を南宋に返還する
2.南宋は金に毎年、銀25万両、絹25万匹を支払う
3.南宋は金を宗主として、臣礼をとる
第1は、南宋には、非常に有利です。
第2は、南宋には経済的負担が大きいのですが、南宋の経済力からすれば、
それほどではありません。
問題は第3です。
これまで、中国王朝は北方民族を蛮族扱いしていました。
その北方民族を宗主とするのですから、いかに屈辱に思ったかしれません。
しかし、それでも金と講和をしたいという、秦檜の執念が感じられます。
秦檜は金の実力者・ダランとの合作で、この講和を実現しました。
この成功で、秦檜は胸をなでおろしたでしょう。
しかし、運命の神は、次の試練を用意していたのです。
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■ 歴史好きの素人が語る歴史(第412回)(2008年07月11日号)
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