2008.07.22
映画批評0069「ミラクル7号」
■□映画批評と物語構成論0069□■
『ミラクル7号』
長江七號 / CJ7 (08)
◇ ◇
スティーブン・スピルバーグ監督の『E.T.』(82)に影響を受けてこの映画
を作ったことを、監督・出演・共同脚本のチャウ・シンチーはハッキリと公
言していますが、同じ『E.T.』にインスパイアされた作品として石井竜也監
督の『河童』(95)が挙げられます。
『ミラクル7号』も『河童』も、父ひとり息子ひとりの物語で、母もいなけ
れば兄弟もなく、そこで異星人(異生物)との交流がはかられ、そして終盤
において父親側に悲劇が起こる……といった具合に、両作品には偶然にも共
通する要素が多くあります。
両作品に共通する要素が多くあるのは、それはどちらも『E.T.』に着想を
得ているから……というわりには本家『E.T.』は父ひとり息子ひとりの物語
ではありませんし、主人公の少年には兄妹もいる。
数少ない共通点といえば「主人公が少年」で「異星人との交流がはかられ
る」──この2点だけで、それにしたって、E.T.は人間の言葉を少しだけ喋
るけども、河童と7号は喋らない。
意外にちがうのです。
しかし『河童』と『ミラクル7号』は良く似ている。
これはなぜなのでしょうか?
◇ ◇ ◇
●チャウ・シンチーは1962年生まれで、
●石井竜也は1959年生まれ
『E.T.』が公開されたのが82年ですから、2人とも『E.T.』の主人公のエリ
オット少年よりは遥かに歳上、公開時にすでに青年だったわけですが、82年
当時に劇場で観たにせよ、あとでビデオで初めて見たにせよ、多大な影響を
受け、のちにオマージュ作品を作ることになるのですから、主人公の少年に
感情移入しまくったのはまず間違いありません。
ここで「映画を観る」という行為の意味が重要になっていきます。
「映画を観る」ときは「映画」と「自分」が1対1の関係です。
家族や仲間とワイワイ言いながら観たのではなく、ジーッと真剣に魅入っ
たのだとすれば、なおのこと。
『E.T.』の物語を自分の物語として再構築しようと考えた場合、『E.T.』を
観たのは「自分」ですから、「主人公の少年」は「自分」であり、それは当
然「自分1人」です。
兄妹とE.T.の秘密を共有するのは勿体ない!!
(=だから主人公は1人っ子)
しかしながら主人公はまだまだ小さな少年です。
となれば学校には通っているであろうと。
となると同級生は登場させないわけにはいかない。
(=同級生とはシブシブ秘密を共有する)
そしてそんな年頃の子どもが1人で暮らしているというわけにはいかない
ですから、親は当然必要であろうと。
(=親は登場する)
ここで選択を迫られます。
E.T.との出逢いは「秘密の出逢い」であり、極論的ではありますが、これ
は恋人との逢引きにも似て、主人公の「ウブな少年」が「秘密の逢引き」を
知られてはマズいのは、まずなによりも「母親」でしょう。
両親が共にいてもいいのに、母親がいない。
それは出逢う「異星人」が「女=恋人」だからであり、そして「もう1人
の母」だからなのでしょう。
実際に『河童』のほうは石井監督自らがその造形のヌメヌメしさに艶めか
しさを加えて、女性らしさを表現しようとしています。
つまりはこういうことになります。
男性監督が『E.T.』を再構築しようと考えたときに、主人公は「少年」で
あり、それは「自分」で、いっぽうの出逢うE.T.は「女」。
(=だから代わりに母親は不在)
(※ これに対して『E.T.』の脚本家は女性)
しかしこれでは「男の子の物語」です。
だからこそチャウ・シンチーは(意識的だったのか無意識だったのかは別
として)「主人公の少年」を少女に演じさせることで、出逢う異星人の性別
を曖昧にさせ、ファミリー映画としてより完璧な、「男の子の物語」であり
「女の子の物語」でもあるという、どうとでも解釈できる「真に性別を超越
した」異星人交流物語を構築せしめ、「自分の物語」でありつつ、結果とし
てより『E.T.』に近い、中世的で絶妙な立ち位置の映画を完成させることが
できたのです。
『E.T.』 → 『河童』 → より男の子的
→ 『ミラクル7号』 → 一巡してより『E.T.』的
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
次回は、エドワート・ノートン主演の
『インクレディブル・ハルク』
その──リメイクする意味──を検証します!!
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