2008.03.19
沙羅月より狼煙あり!
沙羅月より妄想指令あり。要チェック!
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刑部初発信の自伝!
ガッツリいきましょう!
「挫折」 〜高校野球を通して〜 〈高校時代〉
私の一九九〇年代は中学三年受験戦争真っ只中のうちに幕を
開けた。中学校生活の当初は、学業や野球で行き詰まり、いじ
めなどで道を踏み外しかけた時期もあったが、先生方や友人の
温かい支えもあり、ある意味で思い出深い理想的な中学校生活
を送れていたと思う。成績の方も、中三の十二月の時点では第
一志望校には行けないと言われていたが、冬休みの猛勉強が功
を奏し、一月の模擬試験以降は急上昇していった。そして、担
任の先生と相談の結果、当初は諦めかけていた第一志望校を何
とか受験させていただくことになり、近隣では大学進学や甲子
園出場に最も可能性が高いと言われていたT高校に何とか滑り
込むことができた。
中学卒業と同時に、高校野球部から呼び出しがかかった。一
日でも早く練習に参加するようにとのことだった。中学時代、
結局はレギュラーをとれなかった私は受験前、中学校の監督に
高校野球で通用するかどうか質問した。その答えは「守備以外
、打撃と走塁なら十分通用する」というものだった。また「守
備は鍛えれば必ず上達する」とも言ってくださった。合格と同
時に腹は決まっていた。周りが遊び狂う春休みに、野球部グラ
ウンドへ何のためらいもなく足を踏み入れた。
「高校からプロ野球に。もしくは学校の先生に。まずは県予
選で優勝、甲子園出場。」
夢を現実にしようと燃えに燃えている自分がそこにいた。
県予選で優勝し、甲子園出場を決定。ナインがもみくちゃに
なり、先輩後輩関係なく抱き合って喜びを分かち合う光景。テ
レビで見ていたそんな夢舞台が憧れとなり、そして高校野球と
はこういうものだと現実を考えられずにいた。入部前、練習は
ともかく高校野球の人間関係がこれほどまでに辛いものだとは
全く予想だにしていなかった。中学校の挫折など比較にならな
いくらいのこれから直面していく高く厚い壁、「上下関係」と
いう名の挫折が......... 。
春休み。中学時代はリーダーを務めることが多く、怖いもの
なしだった私は、自分をアピールすることばかりを考えていた
。敬語も使えずに、練習中にもかかわらず悪ふざけしたり、時
にはギャグまで言っていた。今、思いおこせば、部の雰囲気が
、確かに少しおかしいとは思ってはいた。先輩後輩(二・三年
生)の間の会話が全くなく、笑みさえもない。笑みというより
むしろ顔が引きつっている。そんな状況に気づかなかった訳で
はないのだが、世間知らずで怖いものなしの私。同級生も私の
態度はさすがにまずいと忠告してくれたが、そんなことは馬耳
東風だった。正式に入部届を提出し、上下関係を目の当たりに
する要素はすべてそろった。
正式に入部した日の練習後、先輩達全員が午後十一時を過ぎ
ても帰らない。やがて、我々新一年生がひとりひとり部室に呼
ばれた。みんな数十分後に暗い顔をして戻ってきた。一番最後
に私が呼ばれた。
優しかった先輩でさえも態度を一変させ、明かり一つない暗
黒地帯のような部室で説教を食らった。周りには姿のはっきり
見えないすべての先輩が、バットを手にしている。この日ほど
自分というものを否定され、今まで築き上げてきた価値観が音
を立てて崩れた時はなかった。この日を境に、野球というもの
に対して疑問を抱き始める。いや、「野球」ではなく「野球部
」というものに対して失望を抱き始めるようになった。グラウ
ンド内は常に全力疾走、声出しは二秒に一回、グラウンドでは
笑顔や辛い顔を見せないなど、練習が厳しいのは何とか耐えら
れる。しかし、理不尽な上下関係に対しては絶望するほかない
。
例えば、入部より数週間後のある日のこと。もともと肩は強
かったが手投げの傾向があった私に、監督は「腕だけではなく
体全体を使って投げよ」と野茂選手(現メジャーリーガー)のト
ルネード投法でキャッチボールをするようにご指導くださった
。私は早速取り入れた。しかし、練習終了後、また暗い部室に
呼ばれ、「めだつ」との理由で投げ方を元に戻すように注意を
受けた。そこで監督からそういう指導された旨を伝え弁解する
と、「監督より先輩優先だ」と足元に鈍い痛みを承る始末。打
撃でもそうだった。監督からパワーを生かせとバットを長持ち
するように指示され、短く持つことは禁止されたのだが、目に
付くという理由から改めさせられた。妥協しないものなら容赦
ない制裁を受けた。同時に、監督からも「言うことを聞こうと
しない」と見離され指導されなくなった。
朝五時からグラウンド整備、帰宅は説教や先輩の道具手入れ
などに追われ毎日十一時過ぎ。野球部であるのに野球をした気
になれない。挙げ句の果てには、高校最初のテストで学年最下
位をとった。成績も振るわず毎日の遅い帰宅に、私のみならず
母親までもがノイローゼぎみになり、双方いつも当たり散らす
ようになった。また、母は突然グラウンドに現われて大声で監
督に突っかかったり、監督やコーチの自宅に匿名で電話をして
、いやみを言ったりする。私としてもどうにもしようがない日
々が続いていた。高校中退を考えた時もあった。真剣に死のう
と思う時もあった。本当に狂えるものなら狂いたいと思った。
そんな中、自分の大好きなおじさんが亡くなるという出来事が
起こる。
大工さんで、いつも優しく力持ちのおじさんだった。そして
、だれよりも私をかわいがってくれた。情にもろい私を知る人
なら、
おじさんの死に直面したのだから、もちろん大泣きしたと思う
だろう。葬儀の当日、周りは全員泣いている。しかし、私は泣
かなかった。というより泣けなかった。おじさんがこの世から
去る悲しみよりも、これで二日間堂々と部活を休めるんだとい
う喜び、先輩と会わなくてよい安堵感の方が大きかった。おじ
さんと死別した悲しみより、練習を休める嬉しさの方が勝って
いたのだ。
こんな状況でも野球は続けたかった。来年になれば二年にな
る。上からの締めつけが減ることを期待して、迎合を我慢に置
き換えて耐えてきた。しかし、ある日、その我慢の糸がプッツ
リと切れてしまった。
毎週恒例の暗闇での説教。二年生だけだった。いつものよう
に高圧的に説教を受ける中、ある先輩が
「今の部活は甘い。来年になったら今以上に締めつけてやる
。覚悟しておけ。」
そう口走った。その瞬間、目の前が部室の闇そのままに黒く絶
望に染まった。
私にはひとり、尊敬する男がいた。小中学校でエース、中学
で北信越大会に出場できたのも彼の力だった。友であり常に目
標だった。何を言われても黙々と練習に励み、将来のエースを
約束されていた男が、その日の帰りに
「刑部、わえ、辞めるから」
と口にした。絶望していた私も反射的に「わえもそうするわ」
と答えた。こうして翌日からの練習への参加を断念した。
断念したその日、監督に退部の意向を伝えたが監督は受諾し
てくれなかった。二人そろって突き返された。しかし断固たる
態度で練習には参加しなかった。
練習のない帰宅、楽園だった。母親も大はしゃぎしている。
ベッドで大の字になり空からの優しい日差しを浴びて、これか
ら始まる楽しい高校生活を計画していた。これが取り返しのつ
かない一日になることなど まったく考えもせずに...
二日後、先輩が呼びに来たが何とか拒否、一週間後にはキャ
プテンにも呼び出された。大声で説得され怒鳴られたが気持ち
は固まっていた。しまいには中学校の監督が私たちを呼び出し
た。高校の監督から二人が辞めないように説得するよう頼まれ
たらしい。
「刑部にはパワーがある。部の雰囲気も盛り上げてくれる。
将来の四番(バッター)にもなれる力がある」
など、私たちの必要性を高校監督の言葉を交えて熱く語ってく
れた。話の途中、なぜか涙が止まらない。また、野球がしたく
なっていた。そんな気持ちを察したのか、中学校の監督は
「刑部、お前はまだ野球がしたいな。T(友人)に気を遣わず
続けろ。」
と言ってくれた。私の性格を理解していたのであろう、まった
くその通りだった。しかし、一緒に辞めた手前、自分だけ戻る
わけにはいかない。Tは会う度ごとに部活に戻るよう言ってく
れたが、それではあまりにも身勝手すぎる。戻りたいけど戻れ
ない......
ジレンマに陥った。
その後、ジレンマが体にも現われ始めた。夜にはじんましん
が出るようになる。また、極限状態での運動が習慣化していた
せいか、突然止めたことに反応し、体中の関節が痛くて痛くて
たまらない。朝の起床もそうだ。早朝四時頃に目が覚め、グラ
ウンド整備に向かうため無意識のうちに自転車に乗っていた。
結局は一ケ月あまり、体に任せて誰もいないグラウンドを整備
した。母に見つかると叱られるので、家族が目覚める前に帰宅
し、何事もなかった様に狸寝入りする生活が続いた。
さらに、そんなジレンマを募らせる出来事が起きる。当時の
エースで、プロ野球の広島東洋カープが視察に来るほどのNと
いう先輩の説得だった。下手くそな自分を誰よりもよく可愛が
ってくれ、また、私という人間をかってくれていた方だった。
退部してから、私はいつもその人の目につかないよう避けるよ
うに生活していたのだが、その人と道ばたでバッタリ会ってし
まった。逃げようとしたのだが呼び止められた。それから三十
分くらいだろうか、Nさんは人目をはばからず一年坊主の私に
どうにか続けるよう熱く説得してくれた。本当に戻りたくなっ
た。戻りたくて戻りたくて仕方なくなった。しかし、戻れなか
った。
7月下旬の甲子園予選、Nさんたち三年生は健闘むなしく、
Nさん自身の熱投も実らず県大会準決勝で福井商業に破れた。
そんな試合終了後、Nさんは
「刑部は必ず戻ってくる。その時は温かく迎え入れてやって
くれ」
と涙ながらに訴えてくれたらしい。
でも、戻れなかった。Tのこと、そしてやっと平静に戻った
母親のことを考えると、とても戻ることはできなかった。
野球に未練を残し、夏休みはテレビゲームやゲームセンター
で時間を持て余していた。勉強することもなく、ただ何となく
アルバイトをし、その金でCDを買ったりゲームを買ったりし
ながら現実から逃げていた。宿題の一つもすることなく二学期
に入った。
二学期始業式の後、いきなり職員室に呼び出された。監督だ
った。十月に「一年生大会」があり、出場するにはメンバーが
十人以上必要なのだが人数が足りない。助けてくれとのことだ
った。さらに、自宅で生活しにくかったら監督宅に下宿せよと
もおっしゃっていただいていたことも後に父から伝え聞いた。
父は、野球に悩み、精神病院へ通うようになった私を見かねて
密かに監督宅へ相談しに行っていたらしい。
話はそれるが、一学期の心の揺れやジレンマは私自身の神経
や精神を蝕んだ。ひどい時には、生活にも支障を来すほどの症
状が一日何回も私をいじめた。結局、高校三年間の毎週土曜と
大学浪人時代の帰省の際は精神病院に通院し続けたという経緯
がある。
それはさておき、監督からの懇願に私は屈した。野球が好き
だったし、何よりも私をそこまで必要としてくれる監督や友人
に恩返しや償いも兼ねてプレーしようと思った。まさに「渡り
に船」だったのかもしれない。友人Tとは多少関係がぎくしゃ
くしたが、最終的には応援してくれた。そして父も、精神病の
こともあってか、母の猛反対を押し切って一年生大会への出場
を認めてくれた。この日から素振りに自主練習に燃えに燃えま
くった。
一年生大会前日、燃えてはいるものの続けるかどうか迷って
いた私は、自分の気持ちにけじめをつける意味でも、父に「一
つの条件」を提示した。もし、この条件を達成できたなら復帰
させてくれるよう頼んだ。(実際に退部は認めてもらっていな
いが) 父は賛成してくれた。
条件とは、「一試合に長打(二塁打以上のヒット)を二本打つ
」こと。一本の本塁打ならまぐれで出るかもしれない。しかし
、確実性のない私にとって二本打つことは難しい。あえて厳し
い条件を設定した。その時は別に深くは考えていなかったが、
今になって考えると、一本打ってから次の打席までに考える時
間が欲しかったのかもしれない。
大会当日、一回戦。スタンドから父がカメラを構える中、外
角のカーブに全くタイミングがあわず、再三のチャンスにもか
かわらず三連続三振を喫していた。しかし、四打席目に相手投
手のコントロールミスから絶好球が来た。思いっきり振った。
左中間に二塁打を放った。そして試合はもつれ、また、絶好の
チャンスで回ってきた。同点で迎えた次の打席、今度は九回の
裏二死満塁。一打サヨナラのチャンスだった。復帰の条件を知
っていたベンチも、そして客席も大声で「刑部、刑部」と応援
してくれた。こんな状況が迷いを振り払ってくれた。
「さぁこい!必ず打ってやる。」
だが、結果は意外な結末を迎える。初球いきなりの大暴投。
三塁ランナーが生還し、サヨナラ勝ちで試合終了。はしゃぎ回
るナインの中心に私はたたずんでいた。条件を達成できずに複
雑な心境だった。肩透かしを食らって素直に喜べなかった。続
けるかどうかは次の試合に持ち越しとなった。
二回戦、高校生活最後の試合となる。一方的な展開だった。
ピッチャーは打ち込まれ味方打線は沈黙。その中で、なぜか私
だけは気を吐いていた。内野安打、四球の後、三塁線に二塁打
を放った。そして、九回一死、ナインは
「出塁はいい、長打をねらえ!」
と私が野球を続ける条件を達成できるよう応援してくれた。ス
タンドの父も大きくうなずいてた。バッターボックスに入る前
は打つ気満々だった。
だが、バッターボックスに入る瞬間、ふと疑問が浮かんだ。
「...本当に打ってしまっていいのか...」
続けたかったはずなのに、なぜこの時になってこんな考えが
頭をかすめたのかは今でもわからない。いつの間にかスイング
していた。打球はサードへの強襲ヒット、長打は打てなかった
。塁上に立ったときの記憶は全くなく、ただ、次々打者の放っ
たセカンドゴロ・ゲームセットの映像だけが記憶の片隅に残っ
ている。
試合後、続けるように先輩や同級生全員が説得してくれた。
しばらく時間をもらうことにした。
数日後、自転車での通学途中のこと、ボーッとしていたのか
電柱に激突。骨折等で入院、一週間をベッドの上で過ごした。
一人で考える時間ができた。いろいろ熟考の末、結論を出す
。
「辞めよう...」
「自ら定めた条件を守れなかったから続ける資格なんてない
。」と野球を放棄した。
今にして思えば、Tや母親に対しての気まずさが故に、弱い
自分を納得させる為の言い訳を作っていたのかもしれない。数
ケ月後、監督も知らずのうちに退部を認めていた。
高校三年夏。急造応援団としてスタンドから声援を送る。誰
よりも大声で応援しているうち、いつの間にか涙があふれてい
た。
「なぜ俺はグラウンドにいないんだ。」
この時ほど、切実にプレーしたいと思ったことはなかった。
結局、一緒に甲子園を目指していたはずのナインは一回戦で散
った。なぐさめの言葉は出なかった。気まずさからか一声もか
けられなかった。
夜、自宅のラジオで破れたナインたちの声を聞く。皆泣きな
がら、口々に苦しかったけど続けてよかったと言っていた。野
球を途中で投げ出したことに対して、はっきり後悔し始めたの
はこの時からだったと思う。ナインの最後にキャプテンが、ス
ピーカーが壊れんばかりの大声で
「スタンドからの応援が本当に嬉しかった。ありがとう!」
と絶叫した。複雑な心境だった。
その直後、不意に私の部屋の窓ガラスに小石の当たる音がし
た。窓から顔を出すと、本来なら一緒にプレーしていたはずの
仲間が私の家の前にいるではないか。外に出ていくと 「今日
、応援ありがとな。」「うれしかったよ。」などといろいろお
礼を述べてくれた。私は「惜しかったな。三年間お疲れさまや
った。」と言うのが精一杯だった。全く言葉が見つからないの
だ。
ぎこちないやりとりの後、帰り際に
「三年間、刑部と一緒にプレーしたかったよ」
と言葉を残して去っていった。
いつまでも涙が止まらなった。私は、長い人生の中で、この
日ほど後悔に涙し 号泣する時はないかもしれない。
その後 学業がふるわず、二年間の浪人生活など紆余曲折の
末、ようやく大学に進学。軟式だが野球部に入部した。ここで
もいろいろな出会いや感動的なドラマがあった。こういった人
生も、今にして思えば「高校野球での挫折」が礎となり、本当
の意味で私を成長させてくれたからこそ送り得たのだと思う。
この挫折があったからこそ数々の貴重な経験をすることができ
たのだと心からそう思うのだ。
二年間の浪人時代、恋愛、大学受験、大学生活、アルバイト
、大学野球、学習塾講師、塾長時代、行政職員、教員試験、そ
して現在…
高校野球は二度と戻ってこない。いまだに夢の中でうなされ
る時もある。しかし、この挫折の教訓は、苦悩の末、逃げ出し
そうになる私を「絶対に後悔だけはしたくない。だから逃げな
い。絶対に諦めない。」と弱い自分を戒め、その時々で幾度と
なく救ってくれた。もし、この挫折がなければ、今まで経験し
てきた感動の多い人生を送れなかったかもしれないし、今みん
なの前にいる自分は存在していないかもしれない。
「逃げる自分を追いかけて、貫き通す自分を知った。」 い
わゆる 『克己心』。
もちろん、挫折しないに越したことはない。つまり、結果は
どうあれ、こういった経験.過程は、長い人生においては不可
欠な知恵となり糧となって生きてくるのだ。成功や失敗、喜び
にしろ苦悩にしろ、人生に無駄なことなんて何一つない。だか
ら、みんなも挫折し後悔することを恐れずに「夢」にむかって
懸命に生きて欲しい。そのことが、結果如何にかかわらず、将
来的には幅の広い人間になれることにつながるのだから。ひた
むきに必死に頑張ってさえいれば、その時は苦しくとも最終的
には何とかなるし、私自身何とかなってきた。友人や家族、先
生方も助けてくれる。
今現在、私はこの挫折を十八年の歳月を経て、ようやく「成
長させてくれた経験」と胸を張って誇れるようになりつつある
。
これから始まる新たな人生、心より応援して止まない。
いいんじゃねぇ?
熱い熱い青春時代。
いや、刑部やサラムーンにとっては
今も青春時代か。
妄想司令!
___________
青春時代に燃えた出来事を20日までに
5つ書きだそう。
久し振りに思い出に浸ってみては?
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